マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

豊かになるために

2015年02月27日 | 聖書

「 あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、

それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。

あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。」

                                                申命記 24 章 19 節

生活に苦しんでおられる人とは、( 現在は自分が招いた生活苦というものもありますが ) 

ここでは否応がなしに苦しまされている人のことをいうのではないでしょうか。

このような無力な、社会的に弱い立場の人に対する愛を神は祝福されるといわれるのです。

はっきりとこれ見よがしに恵むのではなく、忘れてやるのです、わざと目こぼしをするのです。

それは配慮であり優しさです。なにか 「 してやるからな 」 という態度でされてもあまり嬉しくありません。

それだけではなく、小さなプライドというものが傷つきます。

自分の行為を誇ることもなく、相手に恵んでもらった礼を言わせることでもない。さりげない愛の思いです。

人の基本的人権への配慮と主なる紙を礼拝することとは切り離すことができないのです。

なぜなら、私たちのすべての手のわざを祝福してくださるからです。

「 必ず彼に与えなさい。また与えるとき、心に未練を持ってはならない。このことのために、

  あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。 」     申命記 15:10

幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。」 詩篇 41:1

「 寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。」  箴言 19:17

「 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」     ローマ 13:10

 

                                           

 

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弁慶

2015年02月20日 | 聖書

 

「 私は、全き道に心を留めます。いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。」

                                             詩編 101編 2節

 

人は自分の家の中でどのように歩むかが大切です。よく 「内面」 と 「外面」 と言いますが、私自身も含めて、

外面は大変良いけれども内面の悪い人が多いのです。( あんたには言われたくないよ。と言われそうですが )

外では明るく優しくにこにこし、謙遜で礼儀正しく思いやりもあるのに、家の中では我が儘で自分勝手で、

ありがとうもおはようも、ごめんなさいの言葉もないと言うことがあるのではないでしょうか。

( 家の中にこそ、本心が出るところはありません)

聖書に出てくるノアはいろいろ欠点もあったと思いますが、いつも感心させられる点があります。

神は罪に汚れた世界を大水をもって滅ぼすことをノアの告げ、そして神に信頼する人を助けるために

大きな箱舟をつくらせました。しかし誰一人として悔い改めてその箱舟に入る者はいませんでしたが、

ノアとその妻、三人の息子とその嫁の合計八人は神の命じられたとおり、箱船に入りました。

ノアと言う人が、自分の家の中でどのように歩んできたかがわかります。

家庭にこそ安心と信頼とがあり、それによって築かれるのではないでしょうか。家庭での生活が満足して居れば、

二枚舌、二つの顔を持って悩むことがなくなるのではないでしょうか。

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隣人

2015年02月13日 | 聖書

 

 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

                                       マタイ 22章 39節

現代のこの日本の社会、いや日本だけではなく世界中が、歯車が狂ったように、どこかおかしい。

ほとんど毎日のように凶悪な事件や事故が発生し、私たちを不安にさせています。

政府も有事の危機対策を望み、強力な軍隊警察機関などを要求しています。

日本の社会もここまで来たのかと悲しんでいます。その原因は一体何なのでしょう。

一言では言えない様々なつけが回ってきたからでしょうが、私たち自身が思いやりの心を失い。

誤った自由や自己実現に惑わされて、自分本位の我が儘を押し通すようになったからではないでしょうか。

聖書は言うのです。「隣人を愛しなさい」と。それは神の愛と隣人愛とは、切り離すことができないからです。

自ら進んでその人の隣人となるそれは神の愛を実践することになるからです。

民主詩主義の基盤は神の愛の上に建てられています。

「 復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主であ

る。」    レビ記 19章 18節

                 人の平和と神の平和とははそれぞれ違うものです。

 

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眼を向けて

2015年02月06日 | 聖書


「 イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。・・・・ 。」

                                     ルカ 8章 25節

信仰は自動的に衝動的に作動するものではない。多くの人は、(クリスチャンと言われる人たちも含めて)

信仰を何か暖房装置のサーモスタットに似たものと想像しています、ある温度に設定していると ・・・ 自動的に作動する

さて、多くの人たちは、信仰がそのように作動すると考えているようです。

信仰とはなんでしょうか、 ? それを肯定的に眺めてみましょう。ここで教えられている原則によると、

信仰とは一つの行動、活動だと言うことです。それは私たちが行うべきことです。それは、一人では動きはしません。

あなたや私がそれを働かせるのです。・・・ それこそ、私たちの主がこの人々に仰せになったことにほかなりません。

主は言われました。、「あなたがたの信仰はどこにあるのか ? 」 すなわち、「 なぜあなた方は自分の信仰を取り上げて、

それをこの状況に適用しないのです ? 」 ・・・ 信仰とは、恐慌状態に陥ることを拒否することです。

それは、この世すぎて、あまり霊的でないように思いますか。それこそ信仰の真髄なのですが。

最後にまとめますと。信仰とは、主キリスト・イエスに目を向けることです。そして期待して一歩踏み出すと言うことです。

一歩踏み出すことができなければ、主イエス・キリストに叫び求めることです。この行いが信仰へと導かれていくのです。

   

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