マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

神の国の市民です

2023年07月28日 | キリスト教

 「 けれども、私たちの国籍は天にあります。・・・・・・ 。 」    

                ピリピ人への手紙 3章 20節 

 

まず最初に、「神の国の市民」であると言うことは、神がいつも共にいて下さるということです。

と言うことをしっかりと信仰として、日常の生活に植え付けてください。

 

一日の業をすべて終え、床に就くとき。あなたの心境はいかがでしょう。

「 今日一日感謝でした。明日が楽しみです 」 と言うことのできる日々を送っておられますか。

勿論日々好ましくない事柄が否が応でも向こうからやってくるのが現実ですが、

しかし、このような心で平安な夜を迎えることができると言うことは、ただ神のあわれみと言えるでしょう。

 

一日。何とか過ぎた、いや、主のみ手の中で過ごさせていただいた、

この感謝と共に。カナンの地に一日近づいたと思うとき、明日への希望が湧きあがり、力が沸き上がってきます。

今日と言う日は主が下さり、その中の諸々のこと、即ち、喜ばしいこと、悲しいこと、嫌なこと。等々に対して積極的に迎えることができるのです。

この地上では旅人、カナンの地目指して喜び勇んで歩む日々なのです。

                    想像してください。あなたがカナンの地におられることを。


「 心は躍るよ 心は躍るよ カナンの地想うだに 我が胸 躍るよ 」 

                      ヨルダンの彼方に。  聖歌 642番より 

同 3:20   リビングバイブル

「  しかし、私たちのふるさとは天にあります。 そこには救い主である主イエス・キリストがおられます。

私たちは、キリスト様がそこから帰って来られるのを、ひたすら待ち望んでいるのです。」   

 

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無用です。

2023年07月22日 | キリスト教

だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

                                マタイの福音書  6章 34節

 

 この不安定な時代、確実なものを見出しにくい時代。明日の事に思いを馳せ、思い煩いやすい者です。

 思い煩いの原因それは、恐れるということでしょう。ではその原因とは何でしょうか。

     40 パーセントが、これから起ころうとすること。
     30 パーセントが、過去にあったこと。
     12 パーセントが、有りもしないこと。
     あとの残りが、人間関係です。   以上が、恐れの原因でしょう。

 

世界を見回しますと、非常に興味深いことは、物が溢れるようになった社会に心の病が始まるということです。

物がなければ、今生きていることに感謝することが容易にできます。

けれども物が溢れているところに、私たちは物そのものに仕える誘惑が増えます。

そして物に仕えているので心を思い煩い、それで心の力をすり減らすのです。

私たちは、一日一日の積み重ねが、一年であり、一年一年の積み重ねが。一生であるという、

厳粛な事実を意外に忘れられているのではないでしょうか。

その日をどのように過ごすかは、その人の人生をも変えていくのです。

祝福も、災いも同じ24時間からなっています。この一日をシッカリと受け止め、意義ある一生にして生きたいものです。

私たちは今日まで、耐えられないと思うことを、よく耐え、出来ないと思うことを、何とか遣り抜き、

もう駄目と思うときにも、どうにか生き抜いてきたのです。ですから、思い煩いは不必要です。

それでも、思い煩い苦しいときには、近くの主イエス・キリストの教会へお出かけください。きっと、楽になると思います。


伝道者の書 5章 18~19節
「見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、

日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。

これが人の受ける分なのだ。実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、

自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」
 

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一緒に

2023年07月14日 | キリスト教

「すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」   

              出エジプト  33章 14節

 

クリスチャンもそうでない人も問題を持ちます。同じ不幸が押し寄せます。

病にかかるとクリスチャンは、なかなか薬を飲まないそうです。

それは自分が病気にかかっていることを認めたくないし、

クリスチャンが特有に持っているプライドがあるからです。

でも、私たちはまったく同じように問題を持ちます。

 

違いは、主がともにおられるか、そうでないかであります。

主がともにおられるかそうでないかによって、

その人がクリスチャンかそうでないかの決定的な違いがあるのです。

 

 

主は私を見上げて、「 さあ。来なさい 」 と。愛の慈しみに満ちた瞳で私を下から見上げている。

どうしょう。踏み出せば良いだけの事なのに、何かが、私を後ろに尻込みさせる。

それは、私の自我か。自分は汚れていない、とうそぶく、自分を覆い隠す自分がいる。

それも、主は承知の上で、たらいに水を入れて待ってくれている、なんと感謝な事でしょう。

 



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疲れた ???。最後の一歩

2023年07月08日 | キリスト教

「 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

                                 マタイ 11章 28節

ここでの「重荷」は、自分を喜ばせようとする重荷です。私たちが、何とかして自分を喜ばせようとしても、満ち足りる事がなく、いつも不安です。

現代は、「自己」という言葉が好きです。「自己実現」「自己尊厳」「自己啓発」など、自分を喜ばせようとする考えが中心になっています。

けれども、現代はまた同時に、心の豊かさを求めています。逆に言うと、現代人は心が満たされいていないのです。

この矛盾を抱えているわけは、自分を喜ばそうとしているところに起因しています。 

 

自分の救い主として、自分の心と人生にイエスを受け入れるのでなければ、ここに約束されている休みを得る事はできないのです。

神を知るというのは、いわゆる知識のことではなく、夫が妻を知るような意味であり、親密で深い関係を示します。

この関係の中で、はじめて安らぎを得る事ができるのです。

つまり、神を喜ばすことによって、初めて重荷を下ろす事ができ、とても平安な生活を送ることができます。

 


「つかれしものよ きてやすめ」とやさしくイエスまねかせたもう ……… 聖歌 222 より

 

 主なる神があなたに近づかれた。それは、父の方から遠く離れているあなたのところまで歩んできてくださいました。

 しかし神は。あと一歩をあなたのために残された。あなたはきっと言うでしょう。「 最後の一歩を何故残されるのですか 」と。

 しかし主は言われます。「 あなたの歩みは、一歩、いや半歩でいい。」と。

 そして神はなお言われた。「 私はあなたのその一歩の真実を見たいのだ 」と。 父よ。私に勇気を与えてください。  
                                          
                                    
                          シャローム そして マラナ・タ 

 

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