マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

今日 楽園に

2023年05月26日 | キリスト教

イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」           
                                    
                    ルカの福音書  23:43

私たちの主とともに、十字架につけられた二人の強盗の一人、ラスト・チャンスを掴んだ、最高にラッキーな人物。

イエスは死なれる時に、一人の人を確実に救いへと導かれました。

 

ある物語では。彼はイエスに出会うのはこれが初めてではなく、二度目だと言うことです。

一度目は、主が両親と、エジプトへ逃れる途中でであったと言う物語があります。勿論彼は、その時から強盗でしたが。

 

日本のことわざに「終わりよければ、すべてよし」と言う言葉がありますが。あなたにとって人生の終わりとはどんなものでしょう。  

 

主イエス・キリストは、いつもあなたに、手を差し伸べて。あなたにチャンスの用意をしてくれています。

あなたはこのチャンスを受け取りますか、それとも無視しますか ??   

主イエスはあなたを捜し求めています。私のところに来なさいと。 今日も忍耐を持って待っておられます。


「パラダイス」はイエスの復活前には「アブラハムのふところ」と同義でしたが、

復活と昇天後には「パラダイス」が第三の天(神の臨在の場所)に移動しています(エペソ4:8参照)。

それゆえキリストを信じる者は、死後すぐに天にあげられるようになっています(Ⅱコリント12:4)。

また将来的には、パラダイスは「新しいエルサレム」の中に存在することになります(黙示録2:7)。

 

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知識と悟り

2023年05月12日 | 日記

しかし、心にひそむ罪を、どうして知りえましょう。 どうか、隠れた罪からもきよめてください。
故意に悪に走ることからも引き止め、守ってください。 そうすれば、私は過ちを犯さず、大きな罪からも逃れることができます。
私の口のことばと、秘めた思いが、神様に喜ばれますように。ああ、私の岩、私の救い主、主よ。
 
                             詩篇 19扁 12~14節  リビング・バイブル
 
松明に ・・ ?

 知識と悟りの区別について。
 
           「 知識があるという事は、」 ・・・ 道を照らそうとして、松明を使う事。
           「 悟ったとは 」        ・・・ 松明になる事

神学校で何年か学び、それで悟ったつもりで、人々に語り、果てには、愛の御言葉で、人々を傷付けていた私、その時思ったのです。

 「 この人たちは信仰が弱いから、私の勧めが理解できないのだ 」 と。なんと高慢な者でしょう。

知識だけを振り回し、そこに何の実体もない事すら分からずに歩んでいた、
 
真実に一番惨めなのは私自身であるのに、その私を主は、抱き上げ、神の働きのために育ててくださいました。

 「 私の松明となるように 」 と。今も松明になり切れているかは、甚だ自信のないものです。

ただ、主よ、私をあなたの御手の中にと、祈っています。

 

ダビデがここで話しているのは、知らずに犯した罪のことです。

私たちは、霊的に鈍くなっていて、罪を罪と認められないものがたくさんあります。

気づいていないところで犯している罪があります。

神さまとの交わりに罪が妨げになってほしくないと願っているダビデは、

知らずに犯している罪に対しても、その赦しを願っています。

 

ヨハネ 15:3
「あなたがたは、わたしがあなたに話したことばによって、もうきよいのです。」

 

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極限の愛

2023年05月05日 | キリスト教

あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。           

                                     申命記 4章 24節   

ここに、とても大事な神の本質がここに書かれています。「あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。」とあります。

これは、ヘブル書にも引用されている主の本質です。「神は・・・である」という言葉が聖書にはいくつかありますが、

例えば「神は愛です。」はその一つです。「神は光です」というのもあります。そしてここでは、「焼き尽くす火です」というのもあるのです。

 

主は私たちのためにキリストを十字架につけました。

「神が愛だというのは良いんだけれども、別に十字架にまでかかってくれなくて良かったのに。」と私たちの人間的な思いは言います。

けれども主は熱情を持っておられます。私たちが罪の中で死に、その状態でご自身がお裁きになるのを神ご自身が最も嫌がっておられるのです。

だから、私たちがまだ神にそっぽを向いているときにでさえ、ご自身の独り子を死に渡すことさえされたのです。

ここに愛があるのです。私たちは申命記を通して、私たち人間が普通に考える「愛」と神の愛の違いを知ることができます。
                                               

あなたを滅ぼしたくない、誰にも渡したくない。妬むほどあなたを愛された、神の愛はご自分の命をすべてあなたに与えておられるのです。

この愛に応える従順な者には祝福となり、逆らうものらは裁きとなって現れてくるのです。 
 
神はあなたを自分ものとしたいと、願っているのです。それは、私たちが神を自分のものとすることではなく、私たちが神のものとなる、これこそ恵みの中心です。

この世界に満ちている 「 この世の愛 」 とは奪う愛だと言われますが、あなたに示された「 神の愛 」 は、全てを与え注ぎだす愛です。

この一方的な愛をあなたは迷惑だと思わないでいただきたい

   あなたは愛されています。このことを信じますか。「 はい ! 」と、確信を持って応えて行きましょう。

 

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