マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

幸いである

2017年10月27日 | キリスト教


「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

                                     ヨハネ 20章 29節

キリストの出現で重要なことは、イエスの人間性を見て、神性を信じることです。

ですから、キリストはトマスに「見たから信じたのですか、見ずに信じる者は幸いです 」 と言われたのです。

グレゴリオは、「見るものと信じるものは別個のことである。なぜなら、人間は神性を見ることができないからである。

このトマスはひとりの人間を見て神を公言した」 と言っています。

「わたしの主、 わたしの神よ」 と叫び、トマスの心は愛で満ち溢れ歓喜で生活は一変したのです。

また、キリストは現代に生きるわたしたち、この肉の目で見ることの出来ない者のために 

「見ずに信じる者は幸いです と言われました。」

ここで、イエスはトマスだけを目指してこられ、わたしの傷にふれよと言われました。

まるで「お前が信じることができないならば、私はもう一度十字架にかかる、お前のためならば、

何度でも十字架につこう」とイエスは言われた。

イエスは迷える一人を救うために何度でも来られるのです。復活のイエスとの出会いにより、変えられるのです。また、

復活は出合う人に命と力を与えることができるのです。

 

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全ての人に

2017年10月20日 | キリスト教


「 しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。

わたしは、そのために遣わされたのですから。」    ルカ 4章 43節

 

この記事を読むと、心の優しいイエスなのに、なぜ人々の願いを振り切っていってしまったのか、という疑問がわいてきます。

そして、決然としたイエスの態度にある冷たさのようなものを感じるではないでしょうか。

わたしたちは、人から温かい、いい人だと言われたいと思っていますし、本当にそうでありたい願っています。

そして、人によくしたいと思う心と、わたしたち自身の義務と言うか、使命というものの板挟みになって、

どうしたらよいか、わからなくなることもしばしばです。そんなとき、この聖書の短い聖句を考えてみたらいかがでしょうか。

やはり第一に優先ししなければならないことは、神がわたしたちに下さった使命や義務を果たすことではないでしょうか。


マルコ 1:15

  「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

 

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聞いてくださった

2017年10月13日 | キリスト教


「 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」

                                                   へブル 2章 18節

 

コーリー・テン・ブームは、ドイツの強制収容所に送られました。金曜日は健康診断の日でした。

裸になりニヤニヤしている看守たちの前を列を作って歩いて行かねばなりませんでした。

待っている間、聖書のある箇所がコーリにとって、急に命のあるものとなりました。

同じ金曜日、十字架にかけられたイエス様のことでした。

「 イエス様は、裸のまま十字架にかけられたのです。・・・・・・ 聖書や刻まれた十字架像には、

少なくとも一枚の腰布がつけてあります。それは、芸術家の尊厳の気持ちの現れであることが突然わかってきたのです。

実際には、あの金曜日の朝敬意の念のかけらさえなかったのです。」 裸であることは、コーリーにとって、

もはや恥ではなく光栄となったことでしょう。イエス様と同じ体験をしているのですから。

どんな境遇にあっても、主イエス様はわたしたちのそばにいつもいてくださるのです。

 

詩篇 22:24

「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。

むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。」

 

 

 

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肉の棘

2017年10月06日 | キリスト教


「 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」

と言われたのです。」                          Ⅱコリント 12章 9節

 

人間の持つ高慢さぐらい始末におえないものは無い。心が高慢である限り、キリストの救いを受けることはありません。

使徒パウロは「高慢にならないように、私の肉体に一つの棘が与えられました」と述べています。

パウロの場合その持病が偏頭痛であったか、てんかんであったかはよく分かりませんが、

これさえ良くなればもっと活躍できるのにと思われるもののようです。彼は祈りましたが。神の答えは「私の恵みはあなたに対して十分である」

でした。人それぞれ、生まれ育ち、環境の中でこの問題さえなければどんなに良いものかといった一つや二つは持っています。

実は神はその棘を与えられ、その弱さを通して働きをされるとパウロは教えています。

パウロは「私が弱いときこそ、私は強い」と言う経験をしています。弱さがキリストに在って恵みになると言うのです。

その弱さの中にあって、初めて出会う恵みと力の神が完全に現れてくださるのです、キリストと共にある苦しみは恵みなのです。

大丈夫、大丈夫。あなたを心配している方がいます。手を差し出している方がいます。

 

 

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