マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

従順に

2017年08月25日 | キリスト教


「 ……、人間と同じようになられたのです。…… 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」

                                     ピリピ 2章 7~8節

「 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、

それも十字架の死に至るまで従順でした。」                    同 新共同訳

 

これは、キリストがお生まれになってから、十字架に至るまでの道についてのことです。イエスさまは

人間としてお生まれになっただけではなく、人間の中でも卑しい存在になられました。死ぬためにお生まれになりました。

そして単に死ぬのではなく、十字架という極刑によって、極悪人であるというレッテルを張られて死なれることになったのです。

 

「 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られた

ひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」  ヨハネ 1:14  

 

主イエスは、人間関係における従順を次のように教えられました。

「 子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。 」  エペソ 6:1

「 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。」     エペソ 5:22  

「 ……、若い人たち、長老に従いなさい。……  」         Ⅰペテロ  5:5

「 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。 」

                                          ローマ 13:1

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

罪と愛

2017年08月18日 | キリスト教


「 それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。

しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」と話しておられたからである。」  

                                     マルコ 9章 31節

 

主イエスははっきりと、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、

人の子はよみがえる。」と語られましたが。弟子たちはこの言葉がわからなかったと言います。

( 本当は、解らなかったのではなく、考えようとしなかったのです。この事実を受け入れることは、

あまりにも恐ろしいことだったからです。だからこのことはとうてい受け付けることはできなかった )

この点の主イエスの三十三年の生涯は、弟子のユダに裏切られ、無罪だと分かっていたポンテオ・ピラトにより処刑され、

ペテロをはじめ弟子たちに裏切られたと言った理解されない報われない生涯でした。

キリスト教の一番大切な点は私たちを愛し救うため「殺されること」を承知で三十三年の生涯を終えられた主イエスにあります。

パウロは私たちが持つ罪、無知、醜さ、悪、弱さ、病死など「否定的な部分」がキリストの十字架の死によって受け入れられ、

キリストの復活によって「好ましい部分」に変えられることを語り続けています。

ここに語られている神の愛、私たちの罪、その罪を引き受けるキリストの死、救いと恵み、復活による天国の王座に就くこと、

これが聖書に示す「神の国への道」なのです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御心なら

2017年08月11日 | キリスト教

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

                                             ルカ 22章 42節

 

イエスご自身も、戦っておられました。それは、ご自分の意思と御父の意思との間にある葛藤です。

自分の最期が刻々と迫っていることを意識したイエスが、非常に深い悩みの中で、自分の本心を父である神に訴えられた

祈りとして私たちに伝えられています。

( 私たちはこの一方的な恵みと赦しを受けるだけでよいのです。決して赦されるために戦う必要はないのです。)

イエスは、苦しみや悲しみ、そして死を全く恐れない冷徹な印象を絶与える方ではありませんでした。

人間らしい自然な、感情の豊かな方でした。死ぬのは嫌だ。出来ればこの死から逃れたいと思って、 

このように願われたのではなかったでしょうか。「この杯をわたしから取りのけてください」 と主ははっきりと祈りました。

しかし、そう祈りながらも、神の望みは、自分の願っていることとは違って、死を受け入れる事であろうと

イエスは気が付いておられました。

神の望みを受け入れるのが苦しいとき、この場面を思い起こし、イエスの後に従って苦しみの中にも

神の教えに従って歩めるように祈っていきましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善を行ないなさい

2017年08月04日 | キリスト教

 

「そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

                                               ルカ 23章 34節

イエスの三十三年間は何一つ悪いことをしない生涯でした。ピラトは何一つとして罪を見出すことができませんでした。

にもかかわらず十字架につけよと叫ぶ群衆と十字架上のキリストとは「父よ、彼らをお赦しください」という、

執り成しの祈りによって神の愛と罪人の関係が生まれてきます。イザヤ53章12節にある。

「…… 。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」 主イエスは自分との利害関係のない

人のために十字架にかかり全ての人のために祈られたのです。

しかし多くの人たちはこの主の祈りに対して、無頓着となり自分本位の祈りに陥っているのです。

また、この祈りは、ルカ 6章27節で語られた「…… 、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。

あなたを憎む者に善を行ないなさい。」 とみ言葉を実践をされたのです。

相手のために「よかれと思ったことが却って悪い結果になる」こともありますが。それを拭い去ることは誰もできません。

イエスの十字架の死と、執り成しの祈りによって私たちは全て赦されるのです。

この十字架上の犯人はイエスの横に並んで今まさに生涯を終えようとしていました、

彼にとって本当にラスト・チャンスでした。主イエスはこの罪人の罪すら死によって償われたのです。

キリストの赦しには、同じ罪を二度と繰り返さない努力、人を許して受け入れようとする意志を生み出す力があります。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする