マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

義と認められるために

2018年03月30日 | キリスト教

 「 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。」

                                         ルカ 18章 9節

 そのたとえ話が次の物語です。

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。

パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、

ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。

『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。

パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」   18:10~14 

                     

自分自身を信じて生きている人たちに向けられたたとえです。日本人の多くの人が、「私は自分を信じて生きる。」と言いますが、

そのような人がどのような心の状態になっているかを、イエスは次から描かれます。

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。

パリサイ人が、心の中で祈っているとありますが、つまり、これは祈りではなく独り言です。


最初は、「神よ」と言いますが、その後はみな、「私」になっていることに注意してください。自分のことで思いがいっぱいになっています。
 
高ぶる者は奉仕 (人に仕えるまたは、世に仕えること) を嫌い出来なくなります。報酬をもらい、

あるいはそれ相当の評価を受けるとき、人間というものは働きやすいものです。そうした働きも大切ですが、

人の目にふれないが、他者のために働く奉仕の生活も大切です。神に信頼し、神にのみ期待する信仰と密接にかかわっています。
 
 
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全ての人に

2018年03月23日 | キリスト教

 「弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、

すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」

                                   Ⅰコリント 9章 22節

 

「私は、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。

ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、

私自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。

また、私は神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、

律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。

弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、

私はどんなことでもします。それは、私が福音に共にあずかる者となるためです」とパウロは宣言します。


情熱をもって一つのことに取り組んでいる人を見るのは素晴らしいことです。強く、優れた理念のもとに、

一つの目的に向かって行動する人こそ真に人と呼ぶにふさわしい。多くのことに手を出す人生は、

多数の支流となって、チョロチョロ流れる小川のようであり、どれ一つ小舟を浮かべる幅もなく、深さもありません。

 しかし目的を持った人生は、堂々と流れる大河のように、行き交う船を大洋へと下らせます。

精神のうえでは聖められた愛をもって心を尽くし、頭脳のうえでは、壮大な天空を思わせるような思想で満たされた人、

パウロこのような人でした。

 

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人の歩む道

2018年03月16日 | キリスト教

「人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。」

                           箴言 5章 21節

 

ああ、なんと大事な言葉でしょうか!自分の進んでいる道は、主の前でいつも明らかです。

私たちはどんなに隠れて物事を行なっても、主はそのすべてを見ておられます。

そして、ただ見ておられるだけでなく、心を配っておられます。

ですから、自分が悩んでいるということであれば、それを主の前に持っていけば、

主は心を配っておられるのですから、必ず逃れの道を備えてくださいます。

大事なのは、罪によって傷ついた心をそのまま主の前に持ってくることです。

主は、その深い憐れみによって必ず受け入れてくださいます。

決して、ご自分のところに来る人を拒みません。主のところに行けば、

主がその傷をご自分の体に受けてくださり、そして自分の体の中で、魂の中で、

傷の 治癒を行なってくださいます。

ですから、私たちはダビデのようにこう叫ぶのです。「【主】よ。あなたは私を探り、

私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、

私の思いを遠くから読み取られます。」  詩編 139 篇 2 節

私たちは日々この神の前を歩んでいるでしょうか。もう一度、あなたの歩みを振り返ってみてはいかがでしょうか。

 

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宝はみ言葉にあり

2018年03月02日 | キリスト教

 「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」

         コロサイ 3章 2節

 

キリストが自分のうちに形造られるようになると、今度は、生活のいろいろな場面で、

何を行ない何を話したらよいかについて、その知恵が与えられます。また、知識も与えられます。

パウロはここで、「キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」と言っています。

私たちの人生を豊かに知恵と知識の宝が、このみ言葉の中に隠されています。

私の人生の中の数十年は、今の自分にとって非常に大きな意味を持つ、

今の自分を作り上げてきた数十年ですが、その歩みの中で何度イエスの内にある恵みの宝によって助けられたか、

数え切れません。神のみことばによってどれだけ守られたか、どれだけ導かれたか、またある時はどれほど強く罪を示され

悔い改めに導かれたか、与えられた恵は数限りないのです。長い間使っている聖書はボロボロになっても、

神の御子と場はますます新鮮でますます恵みがあふれてきます。どんなに歳月が流れても、

神のみことばはその恵みの新鮮さを失うことはありません。そのキリストのみ言葉のうちに歩むときに、また

互いの愛の交わりの中で、キリストを知っていくなかで、生活における徐々にキリストの支配が広がっていくとき、

これがクリスチャンの霊的な歩みの中で喜びとなります。


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