マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

友のために

2018年04月27日 | キリスト教

 

『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

                                            マタイ 25章 40節

わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、

裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。という聖書のみ言葉補実践しましょう。

王である者が実は最も小さな者といっしょになってくださっています。これは驚くべきことです。
 
イエスは、天と地にあるすべての権威を持っておられる方です。そのイエスが、
 
人々からさげすまれるような困窮している者たちといっしょになってくださいます。
 
私たちは、生活の中でキリストがどのように働かれているか分からなくなるときがありますが、
 
実は、日常生活の中でキリストに出会っているのです。
 
主イエスは、神に仕えるということは、人に仕えることですと言われたのです。神は私たちが人生で、
 
日常の人々との触れ合いの中で、どのように過ごしてきたのか、その在り方によって、
 
羊と山羊を分けるように、永遠の命と、永遠の刑罰を受けるようにされるというのです。
 
あなたは誰かに親切にしてもらった経験はありますか。その時の感謝の心をもって、
 
他者に対していつも親切にする心づもりを持ちましょう。
 
 
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塩気

2018年04月20日 | キリスト教

 

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。・・・。」

                                   マタイ 5章 13節

 

塩というものは人間が生きていくうえで絶対に必要なものです。しかし、その塩を沢山撮ると現代病にかかります。

パレスチナの死海は塩分が25パーセントあり、生物は生きることができません。

ちょうど人間が神に背を向けた愛情のようなものです。人間の持つ罪人としての愛はエロスとよく言われますが、

裏切ることのなんと多いことでしょう。

この塩は料理の隠し味として用いられます。用い方によって美味しさが生きてくるし、あまり用いると食べられなくなります。

何でもないと思っている行為が環境を悪くしたり、近隣に迷惑をかけたりします。

ちょっとした心遣いにより一変して喜ばれる行為にかわる。

私たちの仕事は地の塩の仕事をしていると思うのです。地の塩とは自らを犠牲にして、そして相手を生かす仕事をすることです。

ですから影響を与えずしてクリスチャン生活を送ることはできません。

そして興味深いのは、「塩気をなくしたら、役に立たない」ということです。イエス様は同じ事を異なる喩えで話されましたが、
 
ぶどうの枝はぶどうの幹についていなければ、火で焼かれる燃料にしかならない、ということを言われました。
 
私たちはしばしば、「もう少し、この世的になったほうがよいのではないか。」と感じることがあります。
 
この世にあるものを取り寄せることによって、それでこの世の人が教会にも来てくれるのではないか、と思います。
 
いいえ、この世ははるか先を進んでいます。自分が最新のこの世の情報を得ていると思っても、
 
すでに十年、二十年は時代遅れなのです。ですから、この世から捨てられるのです。

どんなに愚直に思えても、時代遅れに思えても、この地上にはないものが教会にあるのです
 
私たちもイエスにあってこの永遠の「塩の契約」の中に招かれています。
 
そのことを聖霊が私たちの心にしっかりと刻み付けてくださって、今も、そして来たる御国が地に完全に来るまで、
 
「塩けが保たれるように」と祈り続けたいと思います。

 

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肉は何の役には立たない。

2018年04月13日 | キリスト教
「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」
 
                                         ヨハネ 6章 62節
 
 
 
これがイエス様の言葉と、ユダヤ人たちの理解の間にあるすれ違いでした。主は、霊的なこと、神の御霊に関することを話しておられました。
けれどもユダヤ人たちは肉に関すること、目に見える事柄のみで考えていました。
 
ここにいるユダヤ人たちのように、多くの人が肉によって神のこと、キリストのこと、聖書のことを知ろうとしています。どんなにギリシヤ語を学んでも、どんなにヘブライ語を学んでも、神学の博士号を得ても、神の真理に至りつくことはできないのです。御霊を受けた無学の信徒が、これら学識ある人々よりも、神の知識について優れています。肉は何の益ももたらさないのです。
 
ローマ8章2節で、「いのちの御霊の原理」というのがあります。ちょうど自然界に重力の法則があるのと同じように、いのちの御霊の法則がありますこれに従えば、主は私たちの内で、私たちができなくなっていることをしてくださいます。いのちの御霊の原理は、私たちがイエス・キリストを信じる時から働きます。この方を信じることによって、主が与えようとしている力、知恵、知識を知ることができるのです。
 
「思う一念岩をも通す」という言葉があります。昔々、中国大陸に弓に長けた武将がいました。夕方休息をとっていますと、「虎だ ! 」という声がいたので、彼は弓に矢をひきその虎に放ちました。「当たった ! 」と誰かが叫びました。恐るおそる近寄ってみますと、それは虎ではなく岩であったのです。しかし、彼の矢は虎と思っていた岩に突き刺さっていたと言います。
 
信じるということ、確信するということは無限の力を引き出し、ことを成し遂げるのです。救われると信じることは、救いに通じます。キリスト・イエスはそのために来られたのです。
 
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朝の喜び

2018年04月06日 | キリスト教

「わたしは御力をたたえて歌をささげ/朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。あなたはわたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場。」

                                  詩編 59篇 17節                   

 

どんなことがあっても、どんなに辛く、苦しい日々でも、この詩編の作者が心に決めてきたこと、それは「朝に喜びの歌を」歌うことです。

職業の関係や生活のスタイル、リズムの違いで朝早くから起きれない人も多いと思います。

しかし昔から「早起きは三文の得」という言葉があるように、

人々は早起きの利点を感じていたのではないでしょうか。朝はすべてが新鮮で若々しさに満ちたとっておきの時間です。

また、誰にも邪魔されることのない自分だけの静かな時です。こんな時に起きだして心から神の力をほめ歌い、

喜びの賛美を歌ったらどうでしょう。心そのものが朝のようにすがすがしく若やぐでしょう。

そして、心に神の愛や恵みの力があふれてくるでしょう。一日の方向がそれで決まるようなものです。


ヤコブの手紙 5章 13節に、「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。」との勧めがあります。

もう自分は敵に四方を囲まれている、だめだ、と思うとき賛美を以て祈ってください。

いろいろなプレッシャーを受けてどうすればよいか分からなくなったときダビデのように心を広げて祈ってください。

神さまはその祈りと賛美に必ず答えてくださいます。

 

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