マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

手本に

2017年06月30日 | キリスト教

 

「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」

                                              ヨハネ 13章 14節

 

これは、イエスが弟子たちに示された愛の一つ目は、「互いに足を洗うべきです」ということです。

言い換えれば「互いに仕えなさい」ということ。自分の必要を満たすのではなく、相手の必要を満たすために

自分の力と知恵を用いることなのです。弟子たちは後に教会という共同体の中に生きるが、教会は、主にあって互いに仕える所なのです。

 

神は、神に背を向けたこの世の人間を救うために一人子を遣わされました。遣わされた神の子、イエス・キリストは、

皆に仕えるために来たんだと言われました。そして、私は道である、真理である、命であると言われています。

どんな天変地異があろうとも、キリストの教えに変わりはない。私たちに新しい命を与えてくださる、

滅びることのない永遠のいのちを与えてくださるのです。

 私たちは、このイエス・キリストに、人生の一コマで出会うことが許されるならば、そして、信じるなら救われると聖書は

はっきりと約束されています。

 

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心から出るもの

2017年06月23日 | キリスト教

「  実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。 」

                       ローマ 10章 10節

 

ことばは心の産物です。心にあることが、口のことばとして出るのですから。根本問題は心にあります。

しかし、心と言葉が対立して、心のとおりに言葉が出ないことがあります。

心の底では、「自分が悪い、神にお詫びして、神の言われるとおりにしょう。頼ろう、信じよう、従おう、」と思うのに、

口に出てきません。そこで、うやむやで割り切れないままに、暗闇を歩き続けるのです。

このみ言葉は「 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」と語られています。

また、エレミヤ33章3節には「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。」

と言われた神にい祈る一言が、新しい人生の糸口になるのではないでしょうか。

信仰によって義と認められるとは、パウロたちが宣べ伝えている福音を心で信じて、そして口で告白することによるものです

ことさらに、何か他にしなければいけないことはありません。ただ気をつけなければいけないのは、

「イエスを主」と告白することにあります。イエス・キリストを、自分の人生と生活の主として心にお迎えしないかぎり、

この告白はできません。したがって、ただ、「イエスさまを信じます。」と口で言ってもらうだけでは、その人は救われません。

心からの主イエスへの信頼によって、その人は救われます。

 

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信じて待つと言うこと

2017年06月16日 | キリスト教

「・・・・・・ 。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。」

                                              エペソ 4章 1~2

私たちは神によって選ばれ、神から使命を与えられて、その使命を忠実に行うようにとこの世に遣わされいるのです。

そのために必要なことは、神を待ち望むことだと神は私たちに語っておられます。

この事は神の栄光となるはずと、自分自身の思いを最優先して、神の道を外れて歩み神を悲しめ、

また、失敗して自から苦しみを受けとってしまう私たちです。

神は天から私たちのもとに来られ、救いの御手を動かしてくださいます。何時どんな時も神の召しに相応しく歩む、

そんな人生を私たちは選び取っていきたいものです。

 

創世記  49:18

主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む。 」

詩編 62:5

「 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。」

哀歌 3:25 ~26

主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。主の救いを黙して待てば、幸いを得る。 」

イザヤ 40:31

 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。 」

 

 

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答えてください

2017年06月09日 | キリスト教

「  主よ。王をお救いください。私たちが呼ぶときに私たちに答えてください。 」

                                     詩編 20編 9節

あなたはどんな一生を送りたいと思いますか。泣いて暮らすも一生、笑って暮らすも一生、太く短くと言う人も、

細く長くと言う人もおられるでしょう。

しかし聖書は、「平安で静かな一生」を送るのが神のみ心だと言っています。

振り返ってみると、人間は昔から、争い、奪い合い、殺し合って戦争の歴史を続けてきました。

こんなに素晴らしい頭脳と知性を備えられ、神に似せて造られた人間が辿って来たのは戦争の歴史なのです。

その根本は、人が神に背き、神を退けて、自分勝手な欲望だけを満足させようとする罪の道を歩きはじめたからです。

罪を悔い改めて、一人ひとりが神に立ち帰る以外に平和ヘリ道は有りません。そのときに大切なことは、祈りです、それは、

「呼ぶときに答えてください」と言う祈りです。神に呼びかけて、神は答えてくださると言う確信に満ちた祈りです。

それはまた、神を信頼して人々のために執り成すと言う祈りです。この捧げられた祈りは私たちと神の国と繋がっているのです。

 

創世記 35:3

「 ・・・ 。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」 

ヨハネ  14:27

「 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。

わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」

 

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目指して

2017年06月02日 | キリスト教

「 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」

                                     ピリピ 3章 14節

 

「 ゴールに到着してほうびを得るために、一生懸命努力しているのです。 このほうびを与えようと、

神様は、私たちを天へと召しておられます。 それは、キリスト・イエスが成し遂げてくださったことに基づくのです。 」  

                                     同 リビングバイブル

 

「 お前やる気があるの 」と言って叱られ、はっとしたことがあります。「なぜ、何のため、こんなことをやるんだろう」 と考えているうちに、

やる気満々ではなく、やる気ノンノンになってしまったのです。人はさまざまで、エンジンをかけて待機している車のように、

「やるぞ」という気持ちがみなぎっている人もいれば、ガレレージに収まった感じで、やる気を起こさせるのに手間取る人もいます。

与えられた性格、素質かも知れませんが、人生それではすまされないのです。

その点でもキリストの弟子パウロは偉大でした。この人はサゥロと呼ばれ、イエスとその教えに反対をし、キリスト信者を捕らえたり、

処罰したりしていました。しかし、イエスに出会って180度転換してからは、過去を振り返って気落ちしたり、

人目を気にして躊躇したりせず正しいと分かったことに全力を傾けて努力したのでした。

私たちも、何か一つこれというものを見つけることができれば、覚悟を決めて、これに邁進していく力を主から戴きましょう。

 

ピリピ  1:21

「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」

ピリピ 3:20

「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」


詩 編 27:4

「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、

その宮で、思いにふける、そのために。」

 


 

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