マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

力ある神が

2022年01月28日 | キリスト教

「天に座する者は笑い、主は彼らをあざけられるであろう。

   そして主は憤りをもって彼らに語り、

          激しい怒りをもって彼らを恐れ惑わせて言われる、」

                 詩篇 2扁 4~5扁

ここには、神のユーモアがあります。私たちが天からの余裕が与えられているのは、ここにあります。

私たちはキリストにあって、天につなげられている者たちです。

ですから、地上で起こっていることを見れば息苦しくなるのですが、天の御座におられる方の視点で眺めれば、

滑稽にさえ思える姿であると認めることができ、物ともしない、動じないのです。

ここから私たちは、心の余裕が生まれるのです。たとえ世が騒々しくなっても、

神が王であり、すべてを仕切っておられるのです。

 

全知全能の神に対して、核ミサイルであろうがその他の大量破壊兵器であろうが、まったく無力です。

その光景はあまりにも滑稽です。主は、世界の軍隊をご自分の口から出てくる言葉一つ一つで、ことごとく滅ぼされます。

イスラエルの地は、死体の山となり、血に満ち溢れます。反キリストは、燃える火と硫黄の池に投げ込まれます。

 

神を無視して動く人減の姿を、神は笑い、あざけられ、怒っておられるとこの詩篇では語られています。

やがてやってくる地震で地が裂けるとき、すべての王も国民も、その裂け目に吸い込まれます。全世界が氷で閉ざされ、

やがてその氷が解けるとき、この人類はどうなるのでしょうか。

 

いま世界中の学者、文学者、預言者、占い師が言っていること、描いていることは、

みんな、神のみ前の人間の無力さにほかなりません。神が人類の歴史にピリオドを打たれるのです。

私たちは、神こそ、天上で人類の歴史を支配していることを悟るべきです。

神は、笑い、あざけり、怒るだけの神ではありのせん。聖書が私たちに告げるメッセージは、

神は愛であり、この混乱した人類を救う救い主です。そのメッセージは、預言者を通し、

多くの部分に分けられ、いろいろな方法で語られました。

 

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神とのかかわり

2022年01月21日 | キリスト教

「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。」

   イザヤ 60章 1節

創造において、神は最初にやみの中から「光」を呼び出されます。

この「光」は光源としての「光」ではなく、かかわりの「光」です。

そしてその「光」の中にすべてのものがかかわりを持って創造されます。

何のかかわりもなく単独で存在している被造物は存在しません。

「暗闇」「夜」といった語彙はそうしたかかわりのない世界と言えます。

 

希望が湧いてくるような、元気になれるような明るいみ言葉です。

でも、そのあとに続く言葉にハッとさせられます。

『見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる』というのです。

預言者イザヤが活躍したのは昔のことであり、

預言者はきれいな澄んだ目をもって自分のまわりをよく見ていました。

暗くってどうしても希望が見えてこないのです。

しかし、大切な事はそれでも目をつぶらないことです。

そしてさらに大切な事はあきらめないということです。

闇に覆われた大地、暗黒に包まれた国々、

でもそこで苦しんでいる人々の上に神の祝福があるというのです。

神の栄光が朝の光りのように現れるというのです。

 

聖書を読むとき、特に預言を読むときに大事なのは「そのまま読む」ということです。

シオンであれば、そのままシオンなのです。

今でもイスラエルにダビデの町があります。そこがシオンと呼ばれているところです。

また聖書には、天のシオンも書かれています。

地上にシオンであり、かつ天にあるシオンが投影されているのです。

 

 

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朝ごとに

2022年01月14日 | キリスト教

主なる神は教をうけた者の舌をわたしに与えて、疲れた者を言葉をもって助けることを知らせ、

また朝ごとにさまし、わたしの耳をさまして、教をうけた者のように聞かせられる。

                             イザヤ 50章 4節

頑なな民に対して、主はなおも仕えられました。それは一にも二にも、父なる神ご自身からご自身が召されたのだ、

人として現れること、女から生まれる者とされたこと、このことをわきまえておられました。

主イエスは、人間の姿を取られました。父なる神から離れては、何も行なわないようにしておられました。

私たちが今、主の言葉に聞き入る弟子であるように、主ご自身が父なる神の御声に聞き入る弟子のようでありました。

 

私たちに救いをもたらすために、へりくだった僕の声を聞かせてくださいます。

そして心に励ましを与え、私たちを立ち直らせてくださいます。

主の僕は、疲れた者を言葉で励ます前に、まず自分が神からの言葉を受けることを教えられます。

それは、知的な言葉や知識に頼った言葉ではなく。神によって朝毎に耳を開いていただくことによって知るものです。

 

マタイ 11:28
「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

 

ビリピ 2:6~11

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、

人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、

ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」

 

 

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新しくされるために

2022年01月07日 | キリスト教

「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。 

           わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」

                     詩篇 119扁 71節

多くのものが成長を止める冬こそ、土壌にとっては安息の時であり、

その間に来年の目覚ましい活躍のための復活の力が蓄積されているのです。

実に行き届いた神の愛の配慮でしょうか。私たちはこの寒い冬の中にあっても、

なおその中に秘められた神の愛のみ心を悟って、この寒い冬のためにも感謝することを学びたいものです。

ところで、自然界に冬が来るだけでなく、私たちの人生にも冬はあります。

時には花咲く順調な春もあるでしょう。あるいは額に汗して労する勤労の夏もそうです。

また、成功の実を楽しむ収穫の秋も。しかし、また日の光さえ見えない逆境の冬も何回となく回ってきます。

自然界に冬を与え、草木のために配慮し、私たちのために最善の取り計らいをしてくださる神は逆境の中にも、

必ず恵みを備えて下さることを知りたい。

 

人は苦しみの中で神に出会う。ヨブが体験したこともそうでした。

 ヨブ 36:15-16
「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いてくださる。

神はあなたにも苦難の中から出ようとする気持を与え、苦難に代えて広い所でくつろがせ、

あなたのために食卓を整え、豊かな食べ物を備えてくださるのだ」。

 

神の教えを学ぶために、どれだけのことが必要でしょうか?自分が心身ともに健康であれば、

神の教えなんか要らない、と言うところでしょう。だから、苦しみが必要でした。

神の教えを受け入れるのに、別に苦しむ必要はありません。けれども、自分は苦しまなかったら、

教えに聞き入ることはなかったでしょう。

 

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