マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

神をほめよ 

2015年05月29日 | 聖書

「 息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。 」

                                詩編 150編 6節

「 神を賛美することによって、世界の意味が満たされるのであり、神の力の豊かさをほめ歌うことによって

天と地の相異なる二つの声が力強いシンフォニーによる讃美へと一つに結ばれるのである。 」  A・ヴァイザ―

詩編の最初の言葉は、「 アシュレー」 ( 幸いなことよ。) でしたが。

最後は「 息のあるものはみな、主( ヤハ) ほめたたえよ 」で閉じています。

この最後の詩編で、私たちに讃美の総動員をかけています。

どうして聖書は 「 神をほめよ 」「 神を賛美せよ 」 というのでしょうか。

第一は、神にこれほど愛され、イエス・キリストの十字架の血潮と言う代価によって救われた私たちが

「 喜んで 」 いたら、神は本当に喜んでくださるでしょう。しかし、それほど愛している者たちが、うなだれて、

悲しんでいるなら、神も悲しまれるでしょう。

第二の理由は、弱い自分勝手な私たちは、賛美が下手だからではないでしょうか。( テクニック的なことではなく )

神様に祈るとき、ただ、純粋に神を賛美し感謝することによって、今迄の私たちの神に対する姿勢が、

「 どうか、どうか 」 だけだったことが分かります。私たちは、たとえピッコロのような小さな楽器であっても、

ひとり子イエス・キリストまで犠牲にして私たちを赦してくださる神を、心一杯讃美すべきです。

父は私たちの嬉々とし、楽しんでいる子の喜ぶ顔を見たいのです。

 

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気を落とさず

2015年05月22日 | キリスト教

 

「 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」

                                         ルカの福音書  18章 1節

私たちの主イエスは、いつでも、どんな時でも絶えず祈れるように、たとえを用いて話されました。

「絶えず」「いつも」という表現はこの当時画期的な表現でした。当時のユダヤ教では、「 神を絶えざる祈りで煩わせるな、

一日三回より多く祈るべきでない」と教えていた。

神を畏れず( 恐れず ) 人を人とも思わない裁判官のところに、非力な貧しいやもめが助けを求めてやってきました。 

あまりにひつこく訴えるので、煩わしくなって、その訴えを聞き入れたというのです。

「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほっておかれることがあろうか」

とイエスは言っています。

私たちはどんな問題でも神のところへ携えて行き、祈り続けなければなりません。それは確信と期待を持った信仰の祈りなのです。

私たちは絶えず祈り続ける者ですが祈りが応えられる時と方法、その結果については神にお任せしなくてはなりません。

それは神が一番良いときに、最善の方法で答えてくださることを信じるからです。祈りを通して自分の問題を理解し整理し、

神にそれらの問題の中に介入していただくのです。

「 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。

 しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」  伝道者の書 3:11

信仰のない祈りとは、

「 祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。

彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」  マタイ 6:7 

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ちょうど良い時に

2015年05月15日 | キリスト教


「 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。

             神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」

                                           Ⅰペテロ 5章 6節

神は力強いお方です。世界をつくられたお方です。( 本当に、これを信じていますか。 )

わたしたちは、この神の御手の下に自分を低くすることを学ばなければなりません。

神が歴史を支配し、私たちの人生をも動かされる方だからです。このお方と共に歩むことです。

この 「 へりくだりなさい 」 とは、「 あなたの思い煩いを一切神に委ねる 」 と言うことにほかなりません。

なぜなら思い煩うということは、自分中心の世界にあると言うことです。自分で何とかしたいという思いです。

( それは良きにつけ、悪しきにつけ自分で事を成そうと、解決を画策するという試みですから。 ) 

私たちは自分の生活設計を立てて計画を立てますが。しかし、その計画を絶対化してはならないのです。

むしろ神が、私たちにどんな計画をしておられ、行おうとしておられるのかを知ろうとする姿勢が必要です。

それは、神の計画のみが固くたつとあるからです。神の支配こそ私たちに平安を与えるものです。

自分の計画、事業、学び、仕事一切の問題に不安を持ち思い煩うのが私たちの本性です。

だからこそ、それらを一切、神に委ねなさいというのです。

聖書から

「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、 」  ルカ 1:51

「  しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。

                 「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」」   ヤコブ 4:6

「  そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに

    賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」 コロサイ 2:23

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先導者

2015年05月08日 | キリスト教

「 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 」

                           ヨハネ 10章 11節

私たちには人生の導き手が必要です。なぜなら羊のように迷ったり、つまづいたりするからです。

( 羊に言われるかもね。あなたほどでもないよ ・・・ と。) 

良い羊飼いなるイエスは、羊である私たちのために命を捨ててくださいました。

( どんな風に、そんなこと頼んだ覚えはない、なんて言わないでください。主イエスは私に真の命を与えるために

十字架につけられるという手段を選んでくださいました。) このお方が私たちの人生を導いてくださるのです。

人間は、その生涯の中で一度ならずだれにも話せない問題を持って悩むことがあります。

そうしたとき、イエスの名によって全能の神に祈り、答えをいただくことができます。

救い主イエスは私たちを受け入れ、罪を赦し、新しい霊的命を与え、生きるエネルギーを与えてくださいます。

聖書から少し

「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」 ヨハネ 10:14 

「 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」  ヨハネ 23:1

主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」  イザヤ 40:11

 

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偽ることのない

2015年05月01日 | キリスト教


「それは、偽ることのない神が、永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちの望みに基づくことです。」

                                                 テトス 1 章 2節

信仰とは、意志を働かせることによってまだ見ぬ将来の出来事を確信できる力を生み出してくれる魔法の力ではありません。

信仰とは、神の約束を現実のものとしてとらえ、それが真実であると信じ、それを知っていることを喜び、

神がそう言われたことで心からの安らぎを得るものです。

「 もっと信仰を与えてください 」 と言う祈りをよく耳にします。しかし注意深く聞き、その祈りの本質にある者は何かと考えてみると、

彼らは、信仰がさらに加えられるようにと望んでいるのではないことに気づきます。

彼らの望みは、信仰が目に見える現実へと変えられることなのです。

信仰は 「 これは私にとって益なのでしょうか。神から送られたものに違いありませんから 」 と言うのではなく、

「 神から送られてきたものですから、私にとって益になるに違いありません 」 と宣言するのです。

神と共に闇の中を歩いている時、ただ 「 しっかりと手を握ってください 」 と神に願うのが、信仰なのです。

飼い主なるお方は 「 あなたの信仰を信用しなさい 」 とは言われない。

ただ 「 神を信用していなさい 」 と言われる  「 私のもとに来なさい 」 と言われるとき

光の中でも闇の中でもみ旨を行うことを願い 信仰の働きについては イエスに委ねるように求めておられます。

聖書から

「なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、

 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、

私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、

すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。」   

                                                     Ⅰコリント 8:5 ~6

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