マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

満ちたるために

2024年05月31日 | キリスト教


「 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」

                             マタイ 5章 6節

「 ああ、飢えて死のうとする人が食物を求めるように、あるいは、渇いて死のうとする人が水を求めるように、

全な義を慕い求める人の、幸いよ ! その人は本当の満足を得ることができるであろう。」  

                                                            バークレ―訳


自分自身のありのままの姿を見た人は、義に対して飢え乾きます。

自分の正しいと思っていた行いは、神の目から見たら汚いぼろきれのようなものです

 

「 幸い 」とは、神の祝福を受けた者としての喜びです。必ずしも自分が成功することではありません。

「 義に飢え…」とは、神との正しい関係、神のみ心に従うことをひたすら求める人のことです。

この人の追及は飢えや渇きが満たされるまでやむことはありません。

このような人を神はご自身との正しい関係に入れてくださるのです。


さて、肉体の渇きは水を飲めばおさまりますが、聖書にある渇いたものとは、どういうことでしょうか。

それは心から溢れるような喜びのない状態、心の中の欠乏を表しています。愛すべき夫を愛せない、

愛すべき子供を愛することができない。これは心が欠乏して豊かさを失った現実の姿です。


それを知った人は、神の義を理想とし、神の義を追い求めます。そして約束は、「満ち足りる」ことです。

キリストが現れる時、わたしたちはキリストに似たものになる事がわかっている、と使徒ヨハネは言っています。

 

 

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神を褒め称えよ

2024年05月24日 | キリスト教

息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。 」

                                詩編 150編 6節

 

「 神を賛美することによって、世界の意味が満たされるのであり、神の力の豊かさをほめ歌うことによって

天と地の相異なる二つの声が力強いシンフォニーによる讃美へと一つに結ばれるのである。 」 

                                                                                A・ヴァイザ―


詩編の最初の言葉は、「 アシュレー」 ( 幸いなことよ。) でしたが。


最後は「 息のあるものはみな、主( ヤハ) ほめたたえよ 」で閉じています。

 

この最後の詩編で、私たちに讃美の総動員をかけています。

どうして聖書は 「 神をほめよ 」「 神を賛美せよ 」 というのでしょうか。


第一は、神にこれほど愛され、イエス・キリストの十字架の血潮と言う代価によって救われた私たちが

「 喜んで 」 いたら、神は本当に喜んでくださるでしょう。しかし、それほど愛している者たちが、うなだれて、

悲しんでいるなら、神も悲しまれるでしょう。

 


第二の理由は、弱い自分勝手な私たちは、賛美が下手だからではないでしょうか。( テクニック的なことではなく )

神様に祈るとき、ただ、純粋に神を賛美し感謝することによって、今迄の私たちの神に対する姿勢が、

「 どうか、どうか 」 だけだったことが分かります。

 


私たちは、たとえピッコロのような小さな楽器であっても、

ひとり子イエス・キリストまで犠牲にして私たちを赦してくださる神を、心一杯讃美すべきです。

父は私たちの嬉々とし、楽しんでいる子の喜ぶ顔を見たいのです。

 

                  ハレルヤ アーメン

           


 

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あきらめないで

2024年05月17日 | 日記

「 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」

                                   ルカの福音書  18章 1節


私たちの主イエスは、いつでも、どんな時でも絶えず祈れるように、たとえを用いて話されました。

「絶えず」「いつも」という表現はこの当時画期的な表現でした。

 

当時のユダヤ教では、「 神を絶えざる祈りで煩わせるな、一日三回より多く祈るべきでない」と教えていた。


神を畏れず( 恐れず ) 人を人とも思わない裁判官のところに、非力な貧しいやもめが助けを求めてやってきました。

 

あまりにひつこく訴えるので、煩わしくなって、その訴えを聞き入れたというのです。


「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、

彼らをいつまでもほっておかれることがあろうか」とイエスは言っています。


私たちはどんな問題でも神のところへ携えて行き、祈り続けなければなりません、それは確信と期待を持った信仰の祈りなのです。

私たちは絶えず祈り続ける者ですが祈りが応えられる時と方法、その結果については神にお任せしなくてはなりません。

それは神が一番良いときに、最善の方法で答えてくださることを信じるからです。祈りを通して自分の問題を理解し整理し、

神にそれらの問題の中に介入していただくのです。


「 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」  伝道者の書 3:11


信仰のない祈りとは、

マタイ 6:7
「 祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」         
     

私たちはこの世において、失望させるようなことが多く出てきます。希望をなくさせるような出来事が起こります。

でも、失望しないように祈りなさい、神を信じる者は決して失望に終わりません、と、イエスは教えられるのです。

 

 

 

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そのままでいいよ

2024年05月10日 | キリスト教

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
                          

                     イザヤ 43:4


主はご自分の選びのゆえに、ご自分の召しと贖いのゆえに、イスラエルをこよなく愛されています。

この愛は、キリストにあって私たちにも注がれています。私たちは神の愛の中で、特別な存在です。


ところで、ここで「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」とあります。

ここで大事なのは、神の目によって高価なのだということであり、私自身の中には価値があるわけではないということです。


ですから、自分の内に何か価値あるものがあるのかという自分探しはやめてください。

代価を支払ってご自分のものにしたいと願われる神、この神を見つめてください。自分探しではなく神探しであります。

 

 

「『 そのままでいい』 どれぐらい信じているかな 

「そんなこと言うけれどこれしなかったらダメなんでしょ ?   

ああならないといけないんでしょ ?  

何の役にも立たなかったら、 見放すんでしょ ? 


だってこのままの私が愛されるはずない、

だからムチ打って働いているよ疲れているのにあなたのためだから愛してくれるのでし ? 」 

 


でも神さまの愛はそんなんじゃない


「その荷物をキミが一人で抱えているからキミを好きなんじゃない、

つらいことを涙見せずに、こらえているから、キミを好きなんじゃない、

明るいから強いから笑っているから正しいから、そんなことで そんなことで、キミのことが好きなんじゃない

ただその存在が大切で嬉しい、ただその命が何よりも愛おしくて、いつもそばにいたい

ありのままの君が好きだよ、たとえ何もできなくっても、飾らないで背伸びしないで、そのままでキミを愛しているよ

ありのままで従っておいで、必要な力はすべて与えるから、

そのままのキミにわたしが働いて、わたしの業を行うから、わたしの栄光を現すから ・・・ 」
 
                                            名も知らない方の詩。

 

 

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愛する子たちへ

2024年05月03日 | キリスト教

「しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。」

                                              Ⅰコリント 8章 3節


ここに、「神に知られるのです」と書かれています。神を知るのではなく、神に知られているとあります。


「私はクリスチャンです。私は神を知っています。」と言うことから、

他の人が、「あの人はクリスチャンなんだ。神があの人と一緒におられるのだ。」と、

神に知られている人に変えられていきます。
                                                       

 

少しおませな子、少しおくての子、少しヤンチャな子、少し消極的な子、突走てしまう子、賢い子、楽しい子、

 

愉快な子、できる子もできない子も、み~んな、私の子。

 

でも、私としては少しもどかしく思うと神は言われる。

 

子たちよ、何故、私の前に出るのに、取り繕っている、何故、構えて私の前に来てまで、善い子ぶるのでしょう。

 

こんなにも、私はお前たちを愛しているのに。さあ、そのままでいいからその笑顔を私に、見せておくれ。
   
              
                                  愛するすべての子達へ          天の父より  

 

まず神が私を愛された、私が神を愛したからではなく、私の良い所だけを見られたのでもなく、

善い所も悪い所もすべて知ったうえで、私を招いてくださっています。

いや、私だけではなく、

この記事に目を留められたあなたも神はそのままで良いから来なさいと招いておられます。  

 

  あなたに主イエスの平安がありますように シャローム   
                   

 

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