マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

彼らを背負い

2016年06月24日 | キリスト教


「 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、

    昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」   イザヤ 63章 9節

 

私たちの悩みと悲しみ、苦しみを神は無視するのではなく、共に悩み苦しんでくださると言うのです。

神は私たちの悩みのただ中に入ってくださり。共に悩んでくださるのです、私たちの悩みを理解してくださり、

どうしたらよいかを考えてくださるのです。

( 勿論神はどうしたらよいかはご存知ですが、私たちが、それを受け入れられるのかを悩んでおられるのでは。)

それだけでなく、そこから救い出して、さらに罪の中に欲望の奴隷になって自分を失っている者を神は買い戻して。

生き生きとして自由のある人生に変えてくださるのです。それがここに言う贖いと言うことです。

贖いとは恵みであり、特権でもあります。( ここにある 「 使い 」 とは、主イエスキリストのことです。 )

そして、このことがもっともよくあらわされているのが主イエスの十字架の死です。

神は常に私たちを見守っていてくださるのです。

聖書から少し

「 すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」」 出 エジプト記 33:14

「 … 、主よ、あなたは、私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です。 」 イザヤ  63:16

「 … 、私たちの弱さに同情できない方ではありません。… 。」    ヘブル 4:15

「 … 同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。」  一ヨハネ 3:17

 

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あなたがたがしらがになっても、

2016年06月17日 | キリスト教

「 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。

その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」  

                                           イザヤ 63章 9節

 

私たちの悩みと苦しみ、苦しみを私たちの神は無視するのではなく、共に悩み苦しんで涙を流されるのです。

神は私たちの悩みのただ中に入ってくださり、共に痛みを味わってくださったのです。

私たちの悩みや問題について理解して、どうしたらよいかを考えてくれるのです。それだけではなく、

そこから救い出して、さらに罪の中に欲望の奴隷となっている自分を失っている者を神は買い戻して、

生き生きとして自由な愛のある人生に変えてくださるのです。そのためには神のもとへ行かなくってはならない

それは神の約束にこうあるからです。「 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。

わたしがあなたがたを休ませてあげます。 」 マタイ  11:28  ここからすべての恵みが始まるのです。

それが私たちを買い戻してくださったその贖いと言うことです。このことが最もよくあらわされているのが

イエスの十字架の死です。神は常に私たちを見守ってくれるのです。

聖書から少し

「 … 、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。」 申命記  1:31

「 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、

 わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」  イザヤ 46:4

「 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、

 自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」  Ⅱコリント 1:4

 

 

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塩で味つけられた

2016年06月10日 | キリスト教

「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。

もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。」  

                                               マタイ 5章 13節

塩は太陽と海からできている、塩は神々への捧げものの中でもっとも原始的なものであり、

ユダヤ人は一日中、犠牲として塩を捧げたらしい。それほど塩は純潔を連想させ、光り輝く白さに純潔を思わせました。

塩というものは、それほど高価ではありません。しかし、生活には必要欠くべからざるものです。

「 地の塩 」 と言うとき、イエスは、あなたが家庭でも、職場でも、なくてはならない人だと言うのです。

「 なくてはならぬ 」 ことを決定づけるのは塩の場合、その辛さです。「 辛さ 」 は、福音であり信仰であり、

イエスその人です。どんな料理でも塩加減ひとつで味が決まります、

他のものを失っても、「 辛さ 」 を失っていなければ、あなたは有用です。他の全てのものを豊かに持っていても、

これを失ったならば無用です、味付けの時、塩は溶けて自分は無くなります。塩が固まりであったときには、

その料理は。「 辛い 」 と言って食べられません。私たちがこの世に味をつけるのは、溶けて自分を捨てたときです。

そして、相手に「 辛味 」をつけるのです。

蛇足だが。最近の世の中は甘味がききすぎているように思う。そこで、この世にピリッと塩味をきかせる責任が

教会や私たちにあると思うのですがいかがでしょうか。

聖書から少し

「 いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。

  そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。 」   コロサイ 4:6

「 人はすべて火で塩づけられねばならない。塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、

何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。 

                                                  マルコ 9:49 ~50  
 

 

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聖書の自由は

2016年06月03日 | キリスト教


「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」

という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。」        ヤコブ 2章 8節

 

全地を創られた神はご自分の姿にかたどって造り、その上に自由意志というものをお与えになりました。

そして、人間は神に逆らうと言うことを覚え、そのために、自分自身を滅ぼすことさえできるようになりました。

これは一つの大きな謎と言えます。現在私たちの目前でみられる色々な現象はこの謎の恐ろしい一面です。

しかし人間はまた他方で、この自由意志のために、自ら進んで神に仕え、隣人のために尽くし、

永遠の救いを勝ち取ることもできるのです。なんと大きな違いでしょうか。

神からいただいた 「自由 」 を自由に使いこなすことは悪いことではないが、一致、真理、そして隣人への

愛のため自らの自由を放棄することができるのなら、これこそが自由の素晴らしい使い方ではないでしょうか。

聖書から少し

「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、

愛をもって互いに仕えなさい。」   ガラテヤ  5:13

「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」 Ⅰペテロ  2:16

この律法を信仰によって真に受け入れて生きるのなら、民族的、社会的差別は無くなると信じます。また

人間的功績や社会的身分による差別も無くなることでしょう。

 

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