マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

愛を

2014年11月28日 | 聖書


「 ・・・・・。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」

                                    旧約聖書 レビ記 19章 18節 

を主イエス・キリストはこの愛を発展させてこう言われました。

それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」

                                    新約聖書 マタイの福音書 7章 12節

この日本で愛といえば男女の愛と、母の愛この愛が最高の愛だと言われています。

この「母の愛」が聖書の言う愛に最も近い愛だとも言われていますが、昨今この愛も怪しくなっているこのごろです。

さて「 愛を表す四つのギリシャ語を見ていきましょう。」

まず最初に、「 エロース 」ですが、これは男女の間に用いられ、主に肉体的な情愛(パッション)を表します。この愛の特徴についてグレゴリー・ナジアンゼンは「熱烈だが長続きしない欲望」と言っています。ただ聖書ではこの語「愛」を表す語としては一度も用いられていません。

二つ目は、「ストルゲー」と言うことばです、これは肉親家族間の愛情を表します。親子間の肉親愛や親族愛との関係があります。

三つ目は、「フィレオ―」といいます、これには心地よい温かさを表す語です。誰かを温かい愛情に満ちた心と関心を持って見ることを表します。友情や夫婦間の愛に用いられます。「慈しむ」という表現がぴったりかも知れません、真の愛情と愛の暖かさに満ちています。

四つ目が、「アガペー」と言うことばです。この語にはフィレオ―の特徴である暖か味が少しもありません。フィレオ―が心と感情に自然にわき出てくるほとんど無意識に生まれてくる愛であるとすれば、アガペーは意志と深い繋がりがあり自発的に起こる感情ではなくむしろ私たちが意識的にそれに従って生きる原理でとも言えます。すなわちアガペーは「精神」と関係ある語であり、キリストの教えという基盤に基づいて抱くべき、全ての人々に対する常の「精神的姿勢」であり、「意志の方向なのです。」

 

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老いる日まで

2014年11月21日 | 聖書


「 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。

                                        わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」      

                                                              イザヤ 46章 4節

 マザー・テレサがこのように言っていました。

「今日の最大の病気は、ライでも結核でもなく、自分はいてもいなくてもいい、誰もわかってくれない、みんなから見捨てられていると感じることである。最大の原因は、愛の足りないこと、神から来るような愛が足りないこと ・・・ 」 

背負う神と、背負われる神。人が背負わなければならないのが世の神々であり、人の重荷を背負われるのが真の神。

母親はどんなにその子を愛していても、いつか子供から離れないわけにはいかないが、永遠に生きておられる主はいつまでも、そして危機だけの時だけでなく、いつも親の働きを止めることなく、私たちを背負い担うと約束されました。何故なら神は愛だからです。それもあなた一人を目に入れても痛くないというほどにあなたを愛しておられます。

かつて「ビタミン愛」という本が出されました。ビタミンが人間の体に必要であると同様に、愛も不可欠なものです。ビタミンが欠乏するとビタミン欠乏症になります。同様に。「愛」が欠乏すると「自分はいてもいなくてもいい存在だ」と感じるようになります。イエス様は私たちが年老いて白髪頭になり歩みもおぼつかなくなっても私たちを背負い続けると言われました。

ただ、最後にこの愛は私たち自身には決してありません。愛の神から供給されなければ私たちにはすぐ隣人さえ心から愛することはできないのです。あなたはこの愛に出会いなさいましたか。もしまだと言われるのなら、どうぞ聖書を読み近くの教会へ足を運んでいただきたい。

 

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比較

2014年11月14日 | 聖書


「 なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

                                    ルカの福音書 14章 11節

ギリシャの無敵の英雄アキレスにも、弱点がありました。彼は敵のパリスにかかとを射られて死にました。信仰生活の致命的アキレス腱は、自分を高くすると言うことです。ここを狙われると信仰は崩れます。何故でしょうか。

まず第一に、神にゆだねることができなくなります。人生には、自分の思いどおりに恵まれる時があり、恵みも喜びも感じられないときもあります。信仰とはこのようなときにも神に自分の身をゆだねますが、高ぶる者はこれが出来ません。次に悔い改めが出来なくなります。自分を高くしている時は、確かに悪いのは他人、正しいのは自分という態度を取っています。

ではこの高ぶりから解放されて謙遜になる方法とは。

・ 事実を認めることによって謙遜を与えられます。

それには新約聖書のローマ人への手紙 7章を読み、そこに自分を見つけるということが自分の本当の姿であることを知るようになります。

・ 完全なものとの比較によって謙遜を与えられます。

このことも、ローマ7章を体験して初めて知ることができる恵みの箇所、そうローマ 8章 で神の賜物によって高ぶりからの解放を体験できるのです。

もし私たちがあらゆる善き生を備えられた主の生涯に、自分の人生を並べてみるなら、おごりは消え失せ、自己満足は干からびてしまうことでしょう。

 

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最後のチャンス

2014年11月07日 | 聖書


番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。」

                                                         ルカ 13章 8節

ここに、『見なさい。三年もの間、やって来ては、・・・・。』 とあります。神は実がなることを期待てその木を植えられました。が。その木には葉ばかりで実がありませんでした。この三年という数字、実はイエスの公生涯はこの時点でおおよそ三年が経過していました。神はその一人子を通して実がなることを期待しておられました。

ここにさばきの遅延と神のあわれみと忍耐とを見ることができます。それはただ主イエスの御業の故なのですが、それは 「 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。 」  Ⅱペテロ 3:9 とあるとおりです。

さて、信仰生活は悔い改めから始まり、悔い改めの連続です。( ここで悔い改めと反省の違いをしっかりと確認しておく必要があります。) しかし多くの場合、葉ばかり ( 反省 ) 茂って悔い改めの実がならないとうことです。しっかりと覚えておきたいことは、神の審判はこの世でもあり、また永遠の裁きとしてあります。

この審判にパスするものは悔い改めて信仰の実を結ぶ者です。イエス・キリストは、私たちがこの実を結ぶことができるよう、この世に来てくださいました。実を結ばない木について、「 その木を切り倒してしまえ 」 と命じられていますが。主イエスは 「 今年も、そのままにしておいてください 」 と私たちのために執り成しをしてくださいました。この 「 もう一年待ってください 」 というイエスの愛を受け入れて悔い改めるのは今です。

しかし、神の忍耐にも限度があります。「  もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」ですからこのときこそ、私たちにとっての最後のチャンスかもしれません。しかしよく覚えていただきたいことは、神が私たちを締め出したのではなく、私たちが自分自身を徹底的に神から締め出してしまうときが来ることを。

「 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 」 ヨハ ネ 3:19

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