神に逆らう者は高慢で神を求めず/何事も神を無視してたくらむ。 」
新共同訳 詩編 10編 4節
「 この悪者どもは、お話にならないほど高慢で横柄で、神様は死んだとみなしているかのようです。 彼らには、神様を求める気持ちなど、これっぽちもありません! 」 同 リビングバイブル
「憎まれっ子世にはばかる」という言葉がありますが、この詩編 十篇はそんな悪者の姿を鋭く分析しています。その根本的姿は、「 神を侮る 」ところにあると言っています。またその思いは「 神はいない 」一言に尽きるとあります。聖書にはこう書いています、「 神の目に見えない本性、即ち神の永遠の力と神性は世界の創造された時からこのかた被造物によって知られはっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」 ですから、「 神はいない 」というのは、神の顔を求めない。神を侮っていることなのです。神を侮ると言うことは必ず、自分の中の美しい、正しい、清い部分を侮ると言うことに通じます。また、人の気持ち、都合、人格を認めないことにも通じます。悪いことをするから悪者になるのではないのです。神を侮ることが、人類の諸悪のもと、人を悪者にする根本なのです。
詩編 14編 1~3 リビングバイブル
「神なんかいやしない!」と言う者の愚かさよ。 この手の人間は、決まって偏見をいだいており、絶対に根っからの善人ではありません。主は天から全人類を見下ろし、神様をお喜ばせしたいと願う賢い者をお探しになります。ところが、いないのです。 だれもが道を踏みはずし、罪のために腐りきっています。 善人はいません。ただの一人もです!」
詩編 36編 1・4 リビングバイブル
「罪は悪者どもの心に巣くい、いつも悪事へとけしかけます。 彼らには、神様を恐れて悪事から遠ざかろうとする気持ちなどありません。夜通し悪事をたくらむ彼らには、悪事から足を洗おうという気持ちなど、みじんもないのです。」
「 神に逆らう者は高慢で神を求めず/何事も神を無視してたくらむ。 」 新共同訳 詩編 10編 4節
「 この悪者どもは、お話にならないほど高慢で横柄で、神様は死んだとみなしているかのようです。
彼らには、神様を求める気持ちなど、これっぽちもありません! 」 同 リビングバイブル
「憎まれっ子世にはばかる」という言葉がありますが、この詩編 十篇はそんな悪者の姿を鋭く分析しています。
その根本的姿は、「 神を侮る 」ところにあると言っています。またその思いは「 神はいない 」一言に尽きるとあります。
聖書にはこう書いています、「 神の目に見えない本性、即ち神の永遠の力と神性は世界の創造された時からこのかた
被造物によって知られはっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」 ですから、「 神はいない 」というのは、
神の顔を求めない。神を侮っていることなのです。神を侮ると言うことは必ず、自分の中の美しい、正しい、清い部分を侮ると言うことに
通じます。また、人の気持ち、都合、人格を認めないことにも通じます。悪いことをするから悪者になるのではないのです。
神を侮ることが、人類の諸悪のもと、人を悪者にする根本なのです。
詩編 14編 1~3 リビングバイブル
「神なんかいやしない!」と言う者の愚かさよ。 この手の人間は、決まって偏見をいだいており、絶対に根っからの善人ではありません。
主は天から全人類を見下ろし、神様をお喜ばせしたいと願う賢い者をお探しになります。ところが、いないのです。 だれもが道を踏みはずし、罪のために腐りきっています。 善人はいません。ただの一人もです!」
詩編 36編 1・4 リビングバイブル
「罪は悪者どもの心に巣くい、いつも悪事へとけしかけます。 彼らには、神様を恐れて悪事から遠ざかろうとする気持ちなどありません。
夜通し悪事をたくらむ彼らには、悪事から足を洗おうという気持ちなど、みじんもないのです。」
「 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。 」
詩編 121篇 7節
神を信じていない人がいても、私たちの人生には人の力の及ばない何か強い力が働いていると言うことを感じている人は多くいます。
人生と言うのは、自分の力で切り開いていくんだと、そんなふうに豪語している人も、自分の力ではどうしょうもない事態に出くわすと、
何か自分の手の届かない特別な力が働いている、そんなふうに感じるものです。
そして運であるとか、つき、さだめというもののせいにして、特に失敗や自分の足りないところを言い逃れしょうとするものです。
人間の及ばぬ力はどちらかと言うと、良い方向より、悪い方向に働くもののようですが、
神は私たちを祝福し恵みに満たす力が働いています。
「『 神は常に我々のために見張りをしておられる』 というこの教えが我々の心の奥深く根を下ろすようになり、
ただ神の保護によってのみ依りすがって、この世のすべての空しい計画を放棄するに至るであろう 」 カルヴァン
Ⅰテサロニケ 5:23
「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。
また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、
わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。 」
「 …… 。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。 」
イザヤ 43章 1節
辛いこと、苦しいことがたくさんある人生を生きている人も多くいます。( 人生にはこの苦難はつきものですが、この苦難によって
人はつくり上げられていくと、よく言われますが、しかし、苦しみは苦しみのままで苦しいのです。 )
病気のために立ち上がることもできない人、病院のベットで自分では何もできず他者の世話でしか生きていけない人。
家族のために苦しんでいる人、自分自身に苦しんでいる人。その他にも苦しみ悲しみ絶望というものの中で生きなければならない人たち。
しかし、神の愛はこの人々と共にあるのです。私には神の愛なんか程遠い、また、神の愛を感じることができないと思っておられる
人もいます。しかし、聖書には「悲しむ人々は幸いです、その人たちは慰められる」
と約束してくださっています。人生とは神に出会う準備のときと言えるのではないでしょうか。
苦しいときほど、神は最も近いところにいてくださいます。
ですから、恐れない理由は神があなたを創造され、贖ったから、そして、あなたは神のものとなっているからです。
もし、この悲しみ、苦しみ、艱難から逃げ出してしまうと。神の恵みも、神のあわれみも、神の愛の深さも、
あなたから逃げ出してしまうのです
ヨハネ 14:27
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、
世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。 」
ヨハネ 16:33
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。
あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」 」
「 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 」
へブル 11章 1節
「 信仰を、どう定義したらよいでしょう。 それは、願い事が必ずかなえられるという、不動の確信です。
また、何が起こるかわからない行く手にも、望みどおりのことが必ず待ち受けていると信じて、疑わないことです。」
同 リビングバイブルより
「希望の杖に身を託し、忍耐の衣をまといつつ、わたしは旅を続ける。この世の悲しみの中を永遠を目差して進む。」
シレシウス
その眼を閉じて、神の御手のうちに一切を、素直に喜んで委ねるならば、これは最高、最善の信仰です。
それは神がなぜ各々の働きをなさるか知ろうと望みません。理性と、感覚と、体験には、怒りと不正以外の何も見えなくても、
信仰は、神が最高の慈しみであり、正義であることを、なおも信じて依り縋っています。
このようなわけで、信仰は、見ていない事実を確認し、見える姿と正反対の事実を確認すると言われているのです。
それだから、信仰とは単なる憧れではなく、また、希望とはあらゆる可能性に期待をかけるのではなく、
揺るがぬ確信に固くたつことです。