マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

二種類の人たち

2014年02月28日 | 日記

 

 ・・・・・ 。神がその人を受け入れてくださったからです。
                                           ローマ 14章 3節

 「食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」                                    
 

「 私はキリストの憐れみによって嘆願する。あなた方が誤りを犯すこともあり得ることを考えて見て下さい 」 クロムウェル

 教会には厳格な狭量派と寛大な自由派があります。この時代にも、また現代と言うときにも、二種類の人たちがいます。それは表に出さない人と、はっきりと態度で表す人たちです。

 私たちは教会の交わりから、あら捜しや軽蔑を ( 色んな意味を込めて )、共に無くさなければなりません。ただ同情と愛と理解を持っことをに努めなければならないのです。

 主イエスは 「 信仰は食べ物に関する規則を守ったり、安息日の過ごし方などという規則で縛ることはできない 」 とハッキリ言われています。

 食べ物に汚れたものなどははない。安息日に働きさえしなければいい、と言うものではなく、主が望まれているのは、もっと生き生きとした愛であり、義であると言われているのです。

 私たちは神の前では、だれもほとんど似たり寄ったりだということを知りながら、差の小さな差に悩みます。相手のほんのわずか違うことを、私たちは怒ったり、非難したりします。主は、どんな人も使われるし、愛されます、愚かな人も賢い人も、勇気ある人も小心な人も、だらしない人も潔癖な人も、それぞれ、それなりに心をもって尽くしていることを知ったうえで愛し、私たちを適材適所によって使ってくださるのです。

      何故。人を裁いてはならないのか ?  それは、神が愛をもってその人を受け入れているからです。 

 食物についての聖句を。
 
 「・・・・ イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。 」 マルコ 7:19
 「・・・・ しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。」 Ⅰテモテ 4:3
 「・・・・ 神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。」 Ⅰコリント 8:8
 「・・・・ しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、・・・・  」  ローマ 14:23
 「・・・・ 、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。 」 Ⅰコリント 10:31 その他。
 
 そして最後に。
     「 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」 ヨハネ 4:32

        裁くのも疲れてしんどいものです。裁かれるのもまた辛くしんどいものです、平安がありますように。アーメン

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渇く

2014年02月21日 | 聖書

 見よ、その日が来ればと/主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。
                      
                                       アモス書 8章 11節



 少しからだの調子が悪くって、入院した、検査漬けで聖書を読むことが出来なかった。と言う程度のものではないのです。神不在の世界が必ず来ると言うのです。主の、み言葉を聞きたくっても、誰も語らない、誰もそれを解き明かさない、どこにも救いの招きがなくなるということは、世の最後と言うことでしょうか。いや。これはある人たちにとってはとても素晴らしいことなのかもしれませんね。暗闇に住み出てこない人々のことですが、神がこの人たちに計画している事は、永遠に愛のない世界に住まわせる事。しかし、神の御心は全ての人々を救いに入れたいと言う、今、まだ神のみ言葉が語られている間に、主を受け入れられますように。日本人独特の横を見てからではなく、あなた個人として足を踏み出しましょう。

  「  神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」                 
                                         Ⅱコリント 6章 2節

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真実に求めるものは

2014年02月14日 | 聖書

  いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。

                                              ルカの福音書 12章 23節

それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。

 では、信仰を持てばその段階で愚かさと決別できるのでしょうか。残念ですが、それは 「 否 」 です。クリスチャンであるキリスト者も、愚かになり得るのです。その場合の愚かさとは、思い煩い、または心配という形で現れます。このことは主を絶対的に信頼していない証拠でもあります。あの信仰の偉人である、ウェスレーは 「 何はともあれ、あなた方は、神の国を求めなさい 」この原則を適用して祝福を得た一人でした。                                                      

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神に対する罪

2014年02月06日 | 聖書

                             

それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」                                                            

                                            使徒の手紙   5章4節 

人は、他者を愛すると言いながらも、本当の自分の心の奥底を見るにつれ、自己中心であり、物欲と名誉心を求めやすい者です。人生それで押し通せることもありますが、しかし、神は、騙されるような方ではないのです。それなのに、騙しとおせると思っているのです。

を馬鹿にするにもほどがあります、あなたのことを誰も知らない、知るはずがないと思っておられますか。でも、神はあなたのことを一番よく知っています。なぜなら、神はあなたを心から愛しておられるからです。そのあなたのことを、いつも見ておられます。その、神の愛にあなたも応えて頂きたいのです。

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