マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

なぜ私なのか

2024年06月28日 | キリスト教

万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。

                            ロマ  11章 36節

 

神は最後に、人間を創造されました。( それは、非常によかった、と有り。)

人間は他の造られた物と違って、神のかたちに造られています。

  どう違うのか。  ????


伝道者 3: 21
「だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。」

伝道者 12:7
「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」

へブル 9:27
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」


獣には「?」が無いので、「死」とは、チリに帰るだけ。しかし、人間はそうでなく、創造主の神にこの霊を返さなければならないので、

「霊的な歩み」即ち、日々の生活の中で神の御心を成すように求められる、

   それはなにか。…… 。 ???

 

ここで素朴な質問。

そもそも、何故、神は人を創ろうと思われたのか。…

それも、地のチリで。…

神の玩具ではなく。…

その人のために全てを整えて。…

それも御自分に似せて。


そして、何故、それが私なのか。・・・・

 

創世記 1:27 
「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」

 

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神のことばとして

2024年06月22日 | キリスト教

「 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、

わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」

                                  ヨハネの福音書 17章 8節


イエスが人々に伝えるのは、自分の言葉ではなく、神から託された真理の言葉なのです。


 教会が神の言葉以外には、何も指示したり定めたりしないことを、私たちは知っています。

 

( たとえ愛する牧師先生でも、牧師先生の経験や知識を語るならそれは神のみ心とは言えません。

人の悟りというものは間違うと言うこともあるからです。聖書のみ言葉自体に神の恵みと力があるのです。)

 

もしそうでない教会があるとすれば、キリストが言われるように、それはただの名前だけの教会です。もっと言えば

教会というものが主のおられないただの建物のこととなってしまっています。

 

み言葉は、教会が語るから、牧師が語るから、神の言葉であるのではなく、神の言葉が説かれている事実が、教会を構成します。

 

神とイエスは一つの群れとしての一致を保つことができるようにと祈られた、それは彼らが単に、人間的に

意気投合し、一つの群れとしてまとまることではなく、イエスと天のみ父のうちに持っていたものと同様の、愛と従順における一致のことです。

 

み言葉は教会に依って造られたものではなくて、教会は神のみ言葉によって造られています。

 

そこに教会があると言うことを知ることの出来るハッキリしたしるしは、神の言葉です。私たちが教会の説教や、

御霊の証しを聞かないとすれば、教会がどこにあるかをどうして知ることができるでしょうか。

 

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私の恵みの主

2024年06月14日 | キリスト教

「 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、

                     天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

                                    使徒の働き  4章 12節

 

ここまで徹底的に、真理をそのまま伝えている言葉がないと言ってもいいほどです。大胆というのは、こういうことです。

権威や圧力から自由にされて、真実に、良心をもって神に仕えることのできる自由です。

 

「 宗論はどちらが勝っても釈迦の恥 」   江戸川柳 より
                            

「 可能であれば平和を、しかしどんな犠牲があろうとも真理を 」  ルター

                               

 私にたとえ知識が無くとも、教理を知らずとも、主は私の神である事には変わりがない。

 神が私の神になってくださったという、このことこそが私たちの恵みであり、喜びの基盤です。

 この世には救い主だと自認するお方が多くおられますが、

 ただ、十字架にかかり甦られた主が、私の主。このお方のみが私を満たし恵まれる、

 この方を喜びたい。この方に感謝を差し上げたい。私の全てを捧げたい。

 生ける神の一人子、主キリスト・イエスへ。ただこのお方に。栄光あれ。                        

                  マラナタ そして シャローム  

 

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愛の模範

2024年06月07日 | キリスト教

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」


                                     ヨハネ 13章 34節


イエスが愛されたというのが基準です。弟子たちは、イエスがどのように自分たちを愛してくださったのかを知っていました。

イエスは愛を語ったのではなく、愛をお見せになりました。ご自分が模範となられて、それを実践されていました。

どのようにして生きれば良いか分からないのではなく、模範にしたがって生きていくことができます。

 

私たちはしばしば、おそらく無意識に、愛から何が得られるかを考えてしまう。この愛が私に何をしてくれるのだろうとおもう。

神の愛と私たちの愛の違いなんと違うことでしょう。しかしこの命令は、イエス・キリストを通して示された神の愛に基礎づけられています。

それはイエスの弟子としての特権でもあり、恵みでもあります。

 

物事を確信することは、救いの力だと言われています。

キリストの愛は、永遠に確信を持たせ、信じさせることです。信じることなくしては、上からの助けも、救いもありません。

イエスは、ご自身が死んで証しするためにこの世に来ました。また、永遠のいのちを与えるために生まれて、

この世に来た。と言われました。必ず救いがあります。確信を持って、その信ずるところに立ち続けて欲しい。


聖書から

「 そこで夫人よ。お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、

初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。

  愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、

 あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。 」

                                      Ⅱ ヨハネ 1:5 ~6

 

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