マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

パン屑に大きな祝福が

2024年08月30日 | キリスト教

 

「 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

                                                                                マタイ 15章 27節 

彼女は娘のために、イエスに取りすがります。しかし弟子たちは、この女を野良犬のように追い払うことを主に求めます。

イエスのお答えも「 わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない 」でした。

しかし彼女はへこみませんでした。自分を犬呼ばわりされてもつまずきませんでした。彼女には愛がありました、

ベンゲルという人は、「 彼女は子供の苦しみを自分のものと感じていた 」と言っております。

彼女は異教徒でありましたが、愛の心を持っていました。

弟子たちの態度には、冷たさ、つれなさがあります。しかし主イエスは、ただご自分の使命を示されます。

しかし、彼女は熱心でした。大変しつこくイエスに迫ってきます。ただ図々しく、熱心だったのではありません。

「 パン屑はいただきたい 」と、パン丸ごとではなく、パン屑をと謙遜にお願いしたのです。

パンの奇跡においても、パン屑は丁重に集められています。案外パン屑のほうに、豊かな恵みが注がれている場合があります。

イエスのパン屑こそ、恵みの宝庫ではないでしょうか。それは、パン屑をいただく謙虚さが、主のみ心にかなうからです。

単なる熱心ではなく謙虚な熱心さを主は喜ばれ良しとされるのです。

彼女を動かしていたのは、愛です。愛は全ての者のうち、最も神に近いものです。

人は苦しみの中でこそ、まことの愛の神を求めるものです。わたしたちも、熱心に主の恵みを求めながらも、

主よ、おことば通りですと、全てを委ねた信仰を目指しましょう。主はこのような信仰を歩む者を今も求められています。

彼女の娘はその時から治りました。

パリサイ人、律法学者は、伝統と外側の行いをイエスに持っていったため、心が遠く離れましたが、

カナン人の女は、自分の信仰をイエスに持っていったため、心がイエスにぴったりとくっつきました。

このように、私たちとイエスとの関係は、私たちが主の恵みを大胆に受け取ることによって確立されるのです。

 

 

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この方以外には

2024年08月23日 | キリスト教

「 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、

                    天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

          
                                使徒の働き  4章 12節


 「 宗論はどちらが勝っても釈迦の恥 」   江戸川柳 より
                            

 「 可能であれば平和を、しかしどんな犠牲があろうとも真理を 」  ルター

 


ここまで徹底的に、真理をそのまま伝えている言葉がないと言ってもいいほどです。大胆というのは、こういうことです。

権威や圧力から自由にされて、真実に、良心をもって神に仕えることのできる自由です。

                           
私にたとえ知識が無くとも、教理を知らずとも、主は私の神である事には変わりがない。

神が私の神になってくださったという、このことこそが私たちの恵みであり、喜びの基盤です。


この世には救い主だと自認するお方が多くおられますが、ただ、十字架にかかり甦られた主が、私の主。このお方のみが私を満たし恵まれる、

この方を喜びたい。この方に感謝を差し上げたい。私の全てを捧げたい。

生ける神の一人子、主キリスト・イエスへ。ただこのお方に。栄光あれ。  

 

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偽善

2024年08月16日 | キリスト教

「だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。

                            あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。

                                                              さばくあなたも、同じことを行っているからである。」

                                                                                                                           ローマ  2章 1節 
 ローマ 1:29~31
「彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。

また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、

親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。」


このように語ると、「これは、私には当てはまらない」とみなし、

そして、「ああ、あのような人たちのことね」と他人行儀にする姿に対して、パウロは福音の真理に基づく光を当てます。

確かに、そのような人たちは、人間的には、他の人々より道徳的な生活をしているのかもしれません。


そして、このような自分自身に対する、「自分は、神の怒りを受けるような人間ではない。」とする自己評価が、

イエス・キリストが自分の罪のために十字架にかかって死なれた、そして三日目によみがえられたとする良き知らせに、耳を閉ざす理由になっています。

伝道者ビリー・グラハムは、「十字架を語ると、人々をつまずかせる。なぜなら、十字架は、あなたは罪人だ、と教えているからだ。」と言いました。

 

とかく人は自分に甘く、他人に厳しくなります。自分と他者とに二つの物差しを使い分けること、

これが「偽善」と呼ばれるものです。自分も同じことをしている、あるいはするだろうと自覚すれば、

心がずいぶん軽くなります。また相手を思いやる心が芽生えてきます。


   

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私って何

2024年08月09日 | キリスト教

万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。

                                      ローマ  11章 36節

ほんとうに、アーメンと言うことしかできませんね。すべての原因は神であり、その過程も神であり、目的地も神なのです。

 

神は最後に、人間を創造されました。( それは、非常によかった、と有り。)

人間は他の造られた物と違って、神のかたちに造られています。

  どう違うのか。  ????

伝道者 3: 21
だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。

伝道者 12:7
ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。

へブル 9:27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

獣には「?」が無いので、「死」とは、チリに帰るだけ。しかし、人間はそうでなく、創造主の神にこの霊を返さなければならないので、「霊的な歩み」即ち、日々の生活の中で神の御心を成すように求められる、

   それはなにか。…… 。 ???

ここで素朴な質問。

そもそも、何故、神は人を創ろうと思われたのか。…

それも、地のチリで。…

神の玩具ではなく。…

その人のために全てを整えて。…

それも御自分に似せて。…

そして 御子を通しての十字架の贖いが地に現わされた

そして、何故、それが私なのか。・・・・

  

 

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あなたの心はどっち

2024年08月02日 | 日記

「  私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが、私の心を広くしてくださるからです。」

                                    詩編 119 編 32節

私たちは 「 広い心 」 を持っいるでしょうか。それとも 「 狭い心 」 を持っているでしょうか。

「 広い世間を狭くして渡る 」 という言葉がありますが、今日は、狭い心とは何かを考えてみましょう。

第一に、それは劣等感で狭くなった心です。劣等感とは、実際のところ何の関係もなく、自分が劣っているとか、

無価値だとか、生きていく自信がないという感情です。

そこから始まる、自己嫌悪、自己否定になってしまうという感情です。要は、自分と何かまたは誰かとを比較する

所にあります。しかし聖書の神はそうは言っておられないのです。それどころかあなたは素晴らしいと言われるのです。

 

有るすばらしい働きをし、多くの人々に手助けをして助け。人々から本当に尊敬を受けている人がおられました。

そのひとは、おじいさんから背負わされた悪い病気のため、苦しみ、猛烈な劣等感に捕らわれて、世間を最高に狭く

渡る人でした。

第二に、エゴイズムで狭くなった心があります。それは自己中心という神の嫌われる性質のことです。

ともかく自分がみんなの中心でなければならない、そのために人々を押しのけ受け入れないという人のことです。

 

では広い心とはどんなものでしょうか。第一に、人も自分もありのままに受け入れ愛する心です。

第二に、人をもてなし人のお世話をする、神と人とのために生きる心です。先ほど紹介した人は、ある時近所で開かれた、

キリスト教の伝道集会に出てみました。あまり期待もせずに、人目を忍んではいった集会、それが祝福への門でした。

神はこのかたを受け入れて下さり、この人の心を広くしてくださいました。

 

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