マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

真実は

2024年01月26日 | キリスト教

いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。

                              ルカの福音書 12章 23節

さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』 しかし

神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、

いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、

からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。

 

まず、頭をつかって優先順位を考えることです。

着ている物と体であれば、もちろん体の方が大事です。体を隠すために、温めるために着る物があります。

ところが私たちが、体よりも着る物にもっと気を使うのであればそれは本末転倒です。

その優先順位が崩れる時に、私たちは心配してしまうのです。

事実、今、この体がある、また息をして生きている、この事実を神に感謝すべきなのです。

 

では、信仰を持てばその段階で愚かさと決別できるのでしょうか。残念ですが、それは 「 否 」 です。

クリスチャンであるキリスト者も、愚かになり得るのです。

その場合の愚かさとは、思い煩い、または心配という形で現れます。

このことは主を絶対的に信頼していない証拠でもあります。

あの信仰の偉人である、ウェスレーは 「 何はともあれ、あなた方は、神の国を求めなさい 」

この原則を適用して祝福を得た一人でした。        

 

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近くにおられた神

2024年01月18日 | 日記

 
「 主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。」

                                詩編 10編 1節

見ず知らずの道でも。

寂しい道でも

人目につかない場所でも、

ひとりで歩いているのではない、

あなたの足跡が近くにあるから。

たとえ 今 苦しみと虐げの只中であっても神は見ておられる


虐げにあうとき、苦しむとき、私たちは、主の御名という砦があります。頼るところがあります。

「 虐待された人々はみな、主のもとに来ます。 主は苦しんでいる人々の隠れ家です。」

                                  詩編 9:9

 

神を見ることができなかったら、

話しかけてみよう。

神が見えなくとも、

そこにおられることがわかっているように語りかけてみよう。

必ずこたえが聞こえてくるはず。

 


「 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。

わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」  ヨハネ 14:3
       

 

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食べ物

2024年01月12日 | キリスト教

・・・・・ 。神がその人を受け入れてくださったからです。
                                           ローマ 14章 3節

 

「食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」                                    
 

「 私はキリストの憐れみによって嘆願する。あなた方が誤りを犯すこともあり得ることを考えて見て下さい 」 クロムウェル

 

教会には厳格な狭量派と寛大な自由派があります。この時代にも、また現代と言うときにも、二種類の人たちがいます。それは表に出さない人と、はっきりと態度で表す人たちです。

私たちは教会の交わりから、あら捜しや軽蔑を ( 色んな意味を込めて )、共に無くさなければなりません。ただ同情と愛と理解を持っことをに努めなければならないのです。

主イエスは 「 信仰は食べ物に関する規則を守ったり、安息日の過ごし方などという規則で縛ることはできない 」 とハッキリ言われています。

食べ物に汚れたものなどははない。安息日に働きさえしなければいい、と言うものではなく、主が望まれているのは、もっと生き生きとした愛であり、義であると言われているのです。

私たちは神の前では、だれもほとんど似たり寄ったりだということを知りながら、差の小さな差に悩みます。相手のほんのわずか違うことを、私たちは怒ったり、非難したりします。主は、どんな人も使われるし、愛されます、愚かな人も賢い人も、勇気ある人も小心な人も、だらしない人も潔癖な人も、それぞれ、それなりに心をもって尽くしていることを知ったうえで愛し、私たちを適材適所によって使ってくださるのです。

      何故。人を裁いてはならないのか ?  それは、神が愛をもってその人を受け入れているからです。 

 食物についての聖句を。
 
 「・・・・ イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。 」 マルコ 7:19
 「・・・・ しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。」 Ⅰテモテ 4:3
 「・・・・ 神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。」 Ⅰコリント 8:8
 「・・・・ しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、・・・・  」  ローマ 14:23
 「・・・・ 、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。 」 Ⅰコリント 10:31 その他。
 
 そして最後に。
     「 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」 ヨハネ 4:32

        裁くのも疲れてしんどいものです。裁かれるのもまた辛くしんどいものです、平安がありますように。アーメン

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愛がないから

2024年01月04日 | キリスト教

彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、

       あなたの神である主を愛しなさい、

            また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 

                                 ルカ 10章 27節

 

神が死んだと言うことは、むしろ問題ではない。 

神を知っている、私たちが、世の光、地の塩でなければならない私たちが、ぜんぜん、神のことを理解していないために、

私たち自身の中で、神が死んでいることが問題なのです。

その愛の神があなたに命じられています。あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ。と、

それでこそあなたの内に私は生きるのです、

 

とても、とてもじゃないですが、出来ません、

そう、正直に言ってどんなに欲目に言ってみたところで、私には不可能、出来ません、

ですから、主イエス・キリストがあなたの側に居られるのです。 従う事こそ、理解への道。 


ガラテヤ 5:14 
律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

 

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