マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

公正公平

2018年10月25日 | キリスト教

「 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」  

                          マタイ 5章 45節

 

私たちは、目に見える区別ばかりに気を取られます。お金持ち、教養のある人、知恵のある人、力のある人、容姿のよい人、

こんな人ばかりに注目します。そして、お年寄り、弱い人、貧しい人、力のない人、知恵のない人を見下したり、

無視したり、忘れたりしやすいのです。

しかし、死を前にして、神のさばきの前に立って考えるとき、お金や肩書などは何でもありません。

すべてが神の前には平等です。神の力の前に自分を置いてみた時に、一羽の雀すら、野の一本の花ですら、

神のみこころによって歌い、美しく咲いています。まして、神に愛されていない人はこの世には一人もいません。

神の恵みにならって上に立つ人は、すべての人に公平な思いやりを持ってほしくおもいます。

神は罪人をも愛されています。ですから、神の愛されている人々を、私たちも愛さなければなりません。

そして極めつけの言葉が、「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」であります。

私たちは「自分は義を行なっている。」という自負を持つことができません。目標が天の父ご自身なのです。

まったく不足しています。ゆえに私たちは義に飢え渇くのです。自分自身に拠り頼むことができないのです。

神ご自身に自分を満たしてくださるよう願うのです。
 
ますますイエス様の栄光を見てください。イエス様がおられるところに天の御国があります。今のみなさんにも、

イエス様が迫っておられる時に、御国も迫っています。

マタ イ 5:7
「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。」
 
ヤコブ 2:13
「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」
 
Ⅰペテロ  2:10
「…… 以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」

 

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祈りの一歩

2018年10月19日 | キリスト教

「 このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」

                         ルカ 6章 12節

 

イエスはよく祈っておられました。短い言葉ですが聖書のあちらこちらにイエスの祈る姿が見受けられます。

イエスの生き方は、父なる神との絶え間ない対話に基づいているのです。

多くの弟子の中から特に十二人を選ばれたのも徹夜をして祈られた後でした。

祈りの重要な第一歩は、まず始めることです。そのまま神がそこにおられることを想像して、

出来ればそれを感じて、場所も時間も姿勢も問題にしないで心を込めて神のみ前に出ることが大切です。

心の落ち着くのを待ってではなく、悲しみで取り乱していたり、喜びで浮き浮きしていたり、混乱したり空しかったり、

今の状態がどうであれ、それが始める時なのです。神さまに自分の生活の真実とありのままの自分を

お見せしてそして耳を傾けて聞くのです。きっと主のお心にふれて今の状況を変える力が与えられるでしょう。

祈りとは、恵みと真実とをもって招かれるまことの神に、思いにおいて,また多くの場合ことばをもって、

近付き,その神といのちの交わりを持つこと.その祈りの対象は、父なる神、御子イエス・キリスト、

そして御霊なる神、すなわち三位一体なる神のみである。

自然現象、偶像、人間、死者、悪霊、サタンはもちろんのこと、聖人や天使でさえも、祈りの対象とはされ得ない。

 

詩編 69:14

「あなたに向かってわたしは祈ります。主よ、御旨にかなうときに/神よ、豊かな慈しみのゆえに/

  わたしに答えて確かな救いをお与えください。」

ロマ 1 2:12

「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」

マタイ  6:6

「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。

 そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

 

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すべてを見ておられる神

2018年10月12日 | キリスト教

「 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。」

                               詩編 139編 4節


この詩編の言葉は、紀元前九百年ごろの信仰者の叫びです。人がどこへ逃れようとしても、

神からは逃げられないことが書かれています。

人は孤独であり、また社会的なものと言われています。家族、友達、仲間と共に生きていく中で、

自分の失敗、あるいは全くの誤解で回りの人々から排斥され、孤独になってしまう場合があります。

そんなときに一番の助け手となり、ゆっくりと悩みを聞いてくれるのは、忍耐と愛に満ちた親、

兄弟、夫婦、仲間や友人でしょう。しかしその交わりにおいても、孤独のどん底で悩む者にとっては、

本当の意味での支え手とはなり切れないのかもしれません。

しかし、神が共に居てくださる以上に心強いことはないでしょう。

口から言葉が出る前に私の考えを神は知っておられるのです。この世に生まれる前から、

神はこの私一人を見守ってくださるのです。

人の生涯に起る様々な出来事、それらは、なぜそうなったのか、そうなるのか、人の知性や理性だけでは解き明かせません。

合理的な解釈も難しく、さらに人智を越えることもしばしばです。それらを自覚すればするほど、

詩人は神の臨在を感じ、敬虔になるのです。また、私たちが、何か言葉を口に出す時に、

その前に思いが先行しています。その思いがどのように自分の中で形成されているのか、

その過程は不思議なものです。これまで無かった思考がある時に与えられ、それを言葉として言い表すまで、

その不思議な成り立ちを主は、ことごとく既に知っておられるのです。この神の委ねていく者の幸せよ。

 

 

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期待・希望

2018年10月05日 | キリスト教

 「 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」

                                  ヨハネ 2章 11節

しばしば、「私は奇蹟を見ないかぎり、神は信じない。」と言う人がいます。

けれども、奇蹟を見る、見ないという前に、その心の態度が神との関係を持てなくさせています。

実際、イエス様の奇蹟がユダヤ人の間で大きく広まった時、その事実が否定できなくなった時、
 
イエス様はメシヤとして受け入れられたのではなく、ねたみを買って殺されたのです。

奇蹟を見たら、人は必ずしも信じるのではなく、殺しさえするのです。だから必要なのは心なのです。

主は、恵みとまことに満ちた方です。この方を知るには、私たちもこの方に心を開く勇気が必要です。

強制的ではなく、自発的な関係が必要なのです。

最初のしるし」ですが、水をぶどう酒に変えるのは、創造の働きがなければいけません。

水をいくらどのように加工しても、ぶどう酒にはなりません。他の元素成分が必要です。

つまり、無から有の創造が必要であり、無から有の創造は神のみにしかできないのです。

聖書において、婚礼の宴は「神の国の到来のしるし」として描かれる。祝宴の酒が無くなるとは、

「喜びの終焉」を意味する。「婚礼の楽しみを中断させることは神の御心ではない」、

だからイエスは水をぶどう酒に変えられ、その結果、喜びは続いた。

イエスは「神の国が来た」として宣教を始められた。それは「喜びと祝福の時が来た、それを受け入れなさい」ということだ。

「ぶどう酒は人の心を喜ばせるもの」(詩篇104:15)、父なる神はその喜びを配慮される方だ、

だからイエスは「水をぶどう酒に変えられた」とヨハネは物語る。

イエスの教えは禁酒禁煙的な禁欲の強制ではなく、解放を告げる良き知らせなのだ。


ゴスペルの歌い手がこう言いました。「神様の愛は、心を開いた人にしか分からない。」

神様は、無理やり、私たちの口をこじ開けるようにしてご自分のことを示そうとは思われません。

弟子たちは、この方はキリストではないかと思って、いっしょにいました。

その求める心、開いた心があったからこそ、主はまず弟子たちにご自分のことを示されたのです。


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