マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

苦しみの時

2018年05月25日 | キリスト教

 「 烈しい風と嵐を避け/急いで身を隠すことができるのに。」

                            詩編 55篇 9節

 

「うめきと涙」しか出てこない、そんな日がいつ私たちに襲わないとも限りません。

外からの敵ではなく身内による裏切りは、ことのほか身にこたえるものです。

そうした経験は心の傷(トラウマ)となります。現代ならば、引きこもりの症状をあらわすことでしょう。

ダビデもそんな症状をあらわしたようです。「ああ、私に鳩のように翼があったなら、そうしたら、

飛び去って、休むものを。ああ、私は遠くの方へのがれ去り、荒野の中に宿りたい。あらしとはやてを避けて、

私ののがれ場に急ぎたい。」  55:6~8。

これはだれもが経験する思いではないかと思います。

「それは現実逃避だ ! もっと前向きに立ち向かえ!」と言われようともそうできないのです。

ここには、人生の重荷が耐えられなくなった時の逃避心が、絵のように歌い上げられています。

「とかく人の世は住みにくい、住みにくさが高じると住みやすいところへ引越ししたくなる」というのは、

夏目漱石の「草枕」の冒頭の有名な句ですが、どこに引越ししたとしても、自分が変わらない限り、

変わらないのが人生ではないでしょうか。しかし、自分が変わるなら、周りまで変わるのも人生ではないでしょうか。

今すぐに遠くに逃げ出したいと思うときは、今すぐ、神の愛と真実、神の遠大なご計画の中に深くとどまって、

そこに自分と神とを見出すべき時ではないでしょうか。

赦すこと、人の罪を赦す力、この力が与えられることが解決の糸口です。神に対する高レベルの信頼を目に

見えるように示して下さった御子、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないようにする」

ことが、私たちの勝利であり、救いだと信じます。

 

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いのちと思い煩い

2018年05月18日 | キリスト教

 「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」

                                      マタイ 6章 27節

 

人間にとって一番大事なものは命だということは誰も異論はないと思います。

山のようなお金を手に入れても、夢のような結婚ができても、死んでしまったら終わりです。

では私たちはどうやって命を手に入れたのか、自分で手に入れた人は誰もいません。

命はただ与えられるしかありません。しかも、いつまで自分の命があるのかさえ分かりません。

私たちは普段から、自分の力で手に入れたものだけが確かなもので、それが価値あるがあるかのように思い込んでいます、

有名な大学にはいる事とか、大企業で出世をすることに人生の意義を求めています。でも、本当はそうではないのです。

神が私たちに命を与えてくださらなければ生きられないのです。そして、神が命を与えて生かしてくださっているという事だけが、

人間の真実な価値であり、生きている意味ではないでしょか。

人間には高慢の罪があります。神のかたちに造られたので自由意志を持っており、神と同じように計画を立てることのできる存在、

知恵をもって創造的な働きをしていくことのできる存在であります。けれどもあくまでも被造物なのです。

自分の命は完全に神の手の中にあるのです。ところがそれさえも、自分で何とかしようとする。これが罪なのです。

思いわずらいからの解放される考え方が二つある。一つは創り主なる神の存在を信じることである。

イエスは神の創られた世界をよく見なさいと教え、野の鳥や野の花の例を示されている。

彼らは神に生かされるままに生きているではないか。あなたたちも神に自らの生を委ねて生きればよい、

何も心配することはないではない。イエスは言われている。

もう一つは、33節で述べられている「だから、神の国と神の義を第一に求めなさい。

そうすれば、それに加えてこれらのものはすべて与えられる」という神の約束である。

いずれにしても、思いわずらいから解放されるには、神を全幅的に信じ、神に思いわずらいを委ねることが先決なのである。

 

 

 

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慈しみに

2018年05月11日 | キリスト教

 

「わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。」

                         詩編 52篇 10節  


この世の中には、不公平、矛盾、困難、試練が満ちています。怒りたくなること、すねたりひがんだりしたくなるようなことが沢山あります。

しかし、目を上に向け、神の深い恵み、神の徹底的な正しさ、清さを見るなら、私たちは自分の幸せ、自主性を見出します。

神は、こんな小さな自分までも愛してくださり、生かしてくださるのです。

この詩編の作者は「私は神の家にある生い茂るオリーブの木のようだ」

と言っています。なんという積極的、楽観的な幸せでしょう。人間の幸せの根本は、神の恵みの中に生きる自分自身を見極めるところから

始まるのです。

次に、神を見上げるとき、私たちは自分の使命を見出します。それは、どんな環境の中でも、神の恵みにより頼み感謝し続け、

神の御名をほめたたえぬくことです。これこそ神を喜ばせ、人を喜ばせる生き方です。そして、知るべきことは、

すべては私にあるのではなく、神のほうにこの恵みはあるのです。

人を変えていく力は神の恵みです。律法やがんばりの世界ではなく、変わることのない神の一方的な愛に基づく守りと祝福であることを私も信じ、

感謝し、そのことを人に語り、あかしして行きたいと思わされます。



                

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帰ってきた放蕩息子

2018年05月04日 | キリスト教

 「ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。

それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。」                                                                   

                                  ルカ 15章 22節

 

父親が受け入れるというところまでは、罪の赦しであり、神の憐れみでした。しかし、ここは神の恵みが取り扱われています。

放蕩息子は私たち人間を、父親は神を表しています。放蕩息子がすべてを無くして帰ってきたとき、

父親は三つのものを準備して息子を迎えました。一番最初にしたことは、最上の着物を着せたことです。

これは信仰上大切な教えを含んでいます。人間の生活はある意味では失敗と過ちの繰り返しですが、

神はイエス・キリストのゆえにきれいな義の着物を準備して、私たちに着せてくださいます。キリストにある再出発がここにあります。

次に、父親は指輪を与えました。これは飾りであり、信仰的には徳であります.キリスト者が一番の飾りとすべき者は善行です。

( 但し、この善行によっての救いはありません。救いはあくまでも恵みの賜物ですから。)

新しい再出発の生活に伴ってくるのは、神のみ前に、また、人々に対して最善のことをしていくという生活の飾りです。

神は私たちを愛し、ただ罪を赦してくださるだけでなく、神の子どもという特権を与えてくださいました。
 
神の持っておられる資産を、私たちは受け継ぐことができるのです。

使徒ヨハネがヨハネ1:12で言った言葉です。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになっ た。」
 
何も資格のない者、むしろ罪の報いを受けて然るべき者が、そのまま神の息子 としての祝福を受けることができる、
 
というのは私たちには決して理解できるものではなく、ただ主 をほめたたえるしかありません。
 
 
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