マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

愛しい人よ

2021年01月29日 | キリスト教

「見よ、冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り、もろもろの花は地にあらわれ、

       鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞こえる。」

                          雅歌 2章 11~12節 

真冬の身も凍るような、厳しい日々もいつかは止み、私たちの喜びの日々が来ます。

これは来るべき神の国の姿です。ただ、私たちは、神が造られたものの中で、

神と親しく交わり、今を喜び楽しんで。この一日を喜び楽しむ、これこそ私たちの姿、

神が人を創られた想いでしょう。ここには宗教も儀式もなく、

あのエデンの園でアダムとイブに交わりを求められた神の愛があるのみ、

神は私たちに対しても交わりを求めておられる姿なのです。

 

この場面の背景は、一時の夢の中では、花嫁は家の中におり、花婿はその外にいるのです。

したがってそれぞれ相手の顔をじっくりと見ることはできず、花婿の声だけが聞こえるという設定です。

しかもそれを花嫁が歌っているのです。今日の花嫁なる教会も花婿の姿は見えませんが、

花婿の声は聖書を通して聞くことが出来るのです。

 

後書き
あなたは誰からか「私の愛しい人」と言われたことは ?

(ご結婚されているならご主人から、まだ恋愛中なら、彼からでしょうね。今も相思相愛の間柄でしょうね。) 

聖書では、神はあなた自身に「あなたは私の愛しい人」と言われています。

あなたはこの方に対してどういうのでしょうか。是非相思相愛の関係を築いてください。

主は今も両手を開いてあなたを待っておられますから。シャローム。

 

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永遠のいのちを

2021年01月23日 | キリスト教

「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、

         聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」

                    ローマ 6章 22節

 

私たちは今、恵みにより赦しを受けて、正しい者となって生きるように義務付けられています。

私たちは、罪の内にとどまり、死と神の怒りの内に導く罪に仕えるか、

それとも新しいいのちの内に、恵みのうちに、神に仕えるかのどちらかです。

罪の奴隷であれば死ですが、神の奴隷であれば永遠のいのちが与えられます

 

聖なる実を得たから、行き着く先が永遠のいのちである、という因果関係に注目してください。

聖さに進んでいることと、永遠のいのちが与えられることは、切っても切り離せないものなのです。

したがって、クリスチャンになってから、聖い生き方を求めずして、天国に行けると考えるのは、明らかに間違いです。

 

信じたら、どんなに罪を犯しても神に赦されているのだから天国に行ける、と教える人がいますが、

聖書に照らすと明らかに間違いです神の奴隷とされているのですから、必ず聖潔の実を結ぶのであり、

聖潔の実が結ばれる結果として永遠のいのちを持ちます。

 

Ⅰコリント6:9-10
「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。

だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、

男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」

 

ローマ6:16
「あなた方は知らないのか。死に至る罪であれ、義に至る従順であれ、

あなた方が従おうとしている者の僕になって、あなた方は仕えるのである。」

 

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信仰告白

2021年01月15日 | キリスト教

「イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

            ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」

                             ルカ 9章 20節

主イエスは、他の人が自分のことをどのように言っているのか、

また、この弟子たちがどう思っているのか、聞かれたことがありました。

ペテロが代表して、「神のキリスト(メシア)です」と答えました。

正しい答えだったのですが、主イエスを正しく理解していませんでした。

主イエスが自分の使命は、ただ人の尊敬を受け、好かれかれ、

好評を博するようなことをして生涯を終わるのではなく、

 

逆に人々から排除され迫害され、ついには、自分の命さえ捧げることにあるのだと言われたとき、

彼らはがっかりしてどうしていいのかわからなくなってしまいました。

そして主イエスはこのような弟子たちを育てなければなりませんでした。

私たちも人に理解してもらえないとき、偉大な先輩であった主イエスの姿を仰いで、

力を与えられていきましょう。

 

私たちクリスチャンはこの信仰告白なしには立つことばできません。

この告白の上に教会は建てられています。この告白なしにはどんなに立派な会堂

(建物)があったとしても真の神の国、あるいは教会とは言えません。

この告白のあるところには、たとえ小さな群れであっても真の神の国があり、教会があるのです。

 

さて、今この時にあなたは主イエスをどういうのでしょう。この告白から神のみわざが現れ始まります。

どうぞこのお方イエスをあなたの救い主としていただきたい。

シャローム  そして  マラナ・タ

 

 

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クリスチャンへ

2021年01月11日 | キリスト教

「わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、

  また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。」


                   ヤコブ 3章 9節 

私たちが身体の調子を崩して病院に行くと、医師から「ちょっと舌を見せてください」と言われます。
 
舌を見れば身体の調子がどうなっているか分かるように、
 
霊的な健康の程度も、その人の舌を見れば分かるということです。
 
「舌」をどの程度制御できるかがキリスト者の成長・成熟の程度を計るバロメーターだということです。
 

口からでるものは心から出るものです。人の心こそ、つかみ所の無い変幻自在なものはありません。
 
自分ですらも、どれが自分の本当の心であるか、つかみかねています。
 
そこには「のろい」から「讃美」まで、なんでもそろっています。
 
舌を制するには心を何とかしなければならないのですが、自分ではどうにもなりません。
 
時々刻々、主を求めて、心を明け渡す以外にありません。
 

ヤコブは言います。人は「神のかたちに造られた」と。もしこの真理を心に留めておけば、
 
自分が呪っているその相手が傷つくことは、すなわち神ご自身を痛めつけていることなのだ、ということです。
 
人のことを悪くいうことは、神への恐れがあれば到底できないことなのです。
 

 
「言論の自由と言われますが、それは時と場所を選ばず、また相手のことを考えずに勝手気ままに語れる自由ではないはずです。時と場合によっては、沈黙しなければならないこともあるはずです。もし私たちが語る権利と時と場が与えられるならば、それは聞く者に対して恵みを与えるものでなければなりません。」
 
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新し日を覚えて

2021年01月01日 | キリスト教

「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。

            その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」

                            詩編 1章 3節

神のいのちの中に深く根を下ろした人生こそ幸せな人生ですが、

その第一の祝福は命の祝福です。幸いな祝福された人生とは、

神のいのち、つまり本物のいのちと繋がっているものなのです。いのちがありさえすれば冬に枯れても、

霜に打たれ、虫に食われ、嵐に倒れても、また芽を吹くのです。

その第二の祝福は成長の祝福です。いのちのあるものは成長するのです。

第三の祝福は美しさの祝福です。いのちのある人生は愛と喜びと平和の美しさに飾られるのです。

そして、第四の祝福は実りの祝福です。いのちのある人生には実が実ります。祝福が他の人にまで及ぶ実を結ぶのです。

 

この繁栄は、少しずつであることを忘れないでください。木から実が結ばれるのに時間がかかるように、

繁栄にも時間が必要です。そして、自分の行為によって繁栄するのでもありません。

自分の仕事はただみことばを自分に蓄えること、主の教えを喜びとしていることです。

 

ちなみに、「植わった木」とは、本来のそこにあった自然木ではなく、

異なった場所に植わっていた木を水路のそばに(水の流れのほとりに)移して、

植え直された木のことです。大切なのは、木ではなく、その木を水路のそばに移植した主体の存在です。

 

水の流れのほとりに移し換えられることで、どんなに灼熱の太陽の下でも、決して枯れることがなく、

むしろ、根を深く下ろして頑強な木として成長し、多くの豊かな実を結ぶようになります。

この「移し変えの恵み」が、詩篇1篇にはっきりと描かれています。

 

本年も皆様方の上に神のご加護と圧倒的な祝福が注がれますように。

シャローム そして マラナ・タ

 

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