マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

順送ですから。

2020年01月31日 | キリスト教

「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」

       レビ記 19章 32節

自分が年老い始めて思う。このごろ、年老いた人たちに対する不親切が、社会の中に広まっていますが、それは汚れたことであり、神の喜ばれない事でもあります。私たちは、老人の方々を見下げるのではなく、むしろ尊敬して接しなければいけません。老人を敬うこと、これは聖いことなのです。
 
こんな会話を小耳に挟みました。「お父さんの老化が酷くなったからお世話が大変でしょう」「でも、順送りですから、苦労して育ててもらったのだから。」と。電車の中のお二人の会話です。自分が年老いた両親を見て、老いていく。子供がそれを支える。その子供がまた老化し、孫が世話をしていく。この順送りという考えは、" 愛 "がなければ生まれてはきません。そして、この愛が躍動した時、イエスの御心が満ち溢れた温かい地球が育つのではないでしょうか。" 白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。" という旧約のみ言葉が心に響きます。自分も「順送りですから」とさらりと言うことができるだろうかと思いながら、この聖句に出会ったことに感謝しました。

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平和のもと

2020年01月24日 | キリスト教

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」
                       

                              マタイ 5章 9~10節

 

キリストは、「心の貧しい人、悲しむ人、正義に飢え渇く人、平和のために働く人、正義のために迫害される人、

キリストのために人からののしられ、責められ、数々の悪口を言われる人」が「幸せである」と言っています。

キリストの言う「幸せな人」は、過去に満足している人ではなくて、

前向きな姿勢で理想をもって、努力している人たちです。また今の自分の人格に満足してしまったり、

あきらめたりするのではなくて、常に理想を目指して、自ら鞭打って努力することが人間として

本当に生きているという事なのです。

自分は他人に迷惑をかけていると気づく人、直そうと思ってもなかなか直せなく、

人格の至らなさを悲しむ人が「幸せな人」なのです。

 

日本で最初の迫害による殉教は、1597年2月5日、豊臣秀吉により処刑された26名の信徒であった。

殉教者は後にカトリック教会により、聖人の列に加えられ「日本二十六聖人」に叙されている。

これ以後日本ではキリスト教に対する迫害が苛烈となり、キリスト教徒でありたければ、

迫害は覚悟のうえでという時代が続いた。義とは神の前での正しさである。

信仰を貫き信仰のゆえに迫害された人々は、天国に迎え入れられるのである。

 

 

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扉は内側から

2020年01月10日 | キリスト教

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」
   
                ヨハネ 14章 1節

画家が持っている大きな絵には、石造りの邸宅の入り口描かれていました。

道の片側には優しい繊細な花々が描かれています。

反対側にはとげのある木の茂みがありました。扉の前に一人の男が立っています。

長く白いロープを着て右手は扉を叩く高さにあります。

 

花は人生の喜びと美しさを現わし、とげは苦しみを示します。扉は人の心を象徴し、

扉を叩く人はキリスト・イエスです。

 

しかし、ドアを開ける取っ手が描かれていない !  

 

この画家は答えました。「取っ手は要らない。キリストがノックすると内側から開けられるはずだ。

そして、キリストは招き入れられる。」

 

人は誰でも自分の心の支配者です。心を開こうと開くまいと自由です。

神は人の自由を尊重するところから。無理に押し入ろうとはなさらない。

招かれたところだけにお入りになります。扉は内側から開かれるべきなのです。

 

心を騒がせない解決法として、「神を信じ、またわたしを信じなさい。」と言われました。

この箇所は、心を騒がせず、神を信じてイエスを信じるために、

イエスが与えてくださっている約束に満ちています。

 

私たち自身が心を騒がせるとき、どのようなことをすればよいのか知るために、

主イエスのみことばから学びましょう。

 

 

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忘却は愛。

2020年01月03日 | キリスト教

「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。

主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」
   
                       コロサイ 3章 13節

赦すことへの勧めですが、「赦す」という意味を考えなければいけません。

それは、端的にいうと「過ぎ去らせる」ということです。お互いの間に、何が意見の不一致があって、

気まずい思いになったとしましょう。このときに陥りやすい罠は、「私はこのように話した、

あの言葉が、このように言い換えればよかったのね。」云々と、細かいことの分析をすることです。

自分たちのことを掘り起こしたところで、何も良いものが生まれません。

むしろ、キリストにあって互いにこの問題を過ぎ去らせ、再び新たに関係を気づくことが大切です。


ウィリアム・バークレイはクリスチャンとして私たちが人を許すために三つのことを

学ばなければならないといいます。そしてその第一は「理解すること」であるというのです。

「人の行動はいつも理由がある。粗野な人、失礼な人、気難しい人には、心配事があるか、

他の苦痛があるのかもしれない。人を疑ったり嫌ったりする人は、相手に対して誤解があるか、

相手の言動を曲解しているのかもしれない。あるいは環境や遺伝のせいかもしれないし、

また、気難しい気質のため問題が多く人間関係がうまくいかないのかもしれない。

人を非難する前にその人を理解しょうと努めれば許すことも容易であろう。」と。いっています。

そして、他の二つの許しのカギは「忘れること」と「愛すること」と言っています。


 
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