マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

正直に

2023年04月28日 | キリスト教

異なる二種類のおもり、異なる二種類の枡、そのどちらも主に忌みきらわれる。
            
                                     箴言 20:10

いくら混ぜても、かき回しても、混ざらない、いくら共に話し合いをと接点を見つけようとしてもそれは無理、

水と油そのような関係。どちらも、これだけは譲れないとしたら、

葛藤と言うことばがあります。なぜこのような心の状態になるのでしょう。

「葛藤」とは、二つ、もしくはそれ以上の何かに心が満たされているゆえです、

善し悪しは別として、一つの方向に向かっている時、人はこれも良し悪しは別として魅力的に感じるものです。

しかし、人は神に向かって真っすぐの向うとき、まことの命、まことの力をいただけるのです。その人はさらに魅力的になります。

そして、真理は一つ、たとへ、このことで排他的と言われようが、このことは絶対に譲れない、それ以外はすべて譲ったとしても、

これからのクリスチャン生活に必要な事では、

人の心の内にあるもの、それが主からのものであれば、御霊によって与えられているものであれば、それをしっかりと守ること、

そして聞いている耳と見ている目をしっかりと持っていることでしょう。

 

箴言  20:5 
「思い計らいは人の心の中の深い水。・・・・・・。」

箴言 20:12 
「聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた。」

 

 

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祈りなさい

2023年04月21日 | キリスト教

「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。」

           詩編 107篇 6節

私たちは苦しみの中にいるまで主に祈らないことがあります。日本式にいえば、「困った時の神頼み」ですね。

けれども、それでも主は私たちの苦しみの中からの祈りを聞いてくださいます。

 

人生には、様々な試練があります。しかし神はそのさまざまな試練を一つ一つ恵みに変えて下さるお方です。

此処の聖句では、そのことを歌っています。この6節は苦しみの時の祝福です。

 

深い深い、暗い暗い井戸の底から見上げると、昼間でも星が見えると言います。

その真昼の星のように、普通では見えないものが、人生にはいくつもあります。

それは、暗い井戸の底から見上げた時に見えるのです。

 

食べるものや着るものに困らなかった時には見えなかった人の優しさや親切が、貧乏のどん底に落ち込んで見上げるとき、見えてきます。

もう他には何の助けも求めることができない苦しみの時、ひたすら上に向かって叫ぶと神の救いの恵みが見えてくるのです。

人生にはいろいろなことが起きてきます。

 

しかし神を求める者、祈る者にとっては、そのいろいろなことが、すべて神からの祝福と変えらる可能性があるのです。

すべての艱難、災いがあろうと、そこには神がおられることを知っていただきたい。

 

ヤコブ 5:13
「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。」

 

ヘンリー・ナウエンは『いま、ここに生きるー生活の中の霊性―』という本の中で、


「予期せぬ喜びに気づく」ということを述べています。

「私たちの住むこの世界は、悲しみに気づかせようと迫ります。

新聞は交通事故や殺人、また個人やグループ、さらに国家間の争いについての情報をとめどなく流しています。

・・そして私たちは、人と出会うとこう言います。『このことほ聞いたかい。あのことを見たかい。ひどい話だろう。とても信じられないよ。』

・・・予期せぬ喜びとは、ことが思いがけなく好転したことを指すのではありません。

そうではなく、すべての暗やみより神の光の方がはるかに現実性があること、すべての人間の偽りよりも神の真理のほうが強力であること、

そして、神の愛は死よりも強いことに気づくことからきます。」(36, 41頁)

 

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どんな神ですか

2023年04月14日 | キリスト教

あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。

                                        わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」      

                                                     イザヤ 46章 4節

背負う神と、背負われる神。人が背負わなければならないのが世の神々であり、人の重荷を背負われるのが真の神。

 

人間の親は自分の子どもの乳児期、幼児期、少年期、青年期と面倒を見て育ててくれますが、最後まで面倒を見るということはできません。

むしろ反対にいつかは逆転して、親が子どもに面倒を見てもらわなければならなくなります。

しかし、神は「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、

わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」と約束しています。

 

何故なら神は愛だからです。それもあなた一人を目に入れても痛くないというほどにあなたを愛しておられます。

 

イエスは私たちが年老いて白髪頭になり歩みもおぼつかなくなっても私たちを背負い続けると言われました。

 

ただ、最後にこの愛は私たち自身には決してありません。

愛の神から供給されなければ私たちにはすぐ隣人さえ心から愛することはできないのです。

 

あなたはこの愛に出会いなさいましたか。もしまだと言われるのなら、どうぞ聖書を読み近くの教会へ足を運んでいただきたい。

 

 

 

 

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