マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

そのままで、

2023年06月23日 | キリスト教

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
                          
         イザヤ 43章 4節

ここには、主ご自身が自ら「わたしはあなたを愛している」とイスラエルの民に語ったフレーズのある有名な箇所です。

このフレーズは本来「主の道に歩むことを望まず、そのおしえに聞き従わなかった」主の民に対して、主が語っている一方的なラブ・コールなのです。

いわば片思いの愛です。


名も知らない方の詩を紹介します。

「『 そのままでいい』 どれぐらい信じているかな 

「そんなこと言うけれどこれしなかったらダメなんでしょ ?   

ああならないといけないんでしょ ?  何の役にも立たなかったら、 見放すんでしょ ? 

だってこのままの私が愛されるはずない、

だからムチ打って働いているよ、疲れているのにあなたのためだから、愛してくれるのでし ? 」 

 

でも神さまの愛はそんなんじゃない。

「その荷物をキミが一人で抱えているからキミを好きなんじゃない、

つらいことを涙見せずに、こらえているから、キミを好きなんじゃない、

明るいから強いから笑っているから正しいから、そんなことで そんなことで、キミのことが好きなんじゃない

ただその存在が大切で嬉しい、ただその命が何よりも愛おしくて、いつもそばにいたい

ありのままの君が好きだよ、たとえ何もできなくっても、飾らないで背伸びしないで、そのままでキミを愛しているよ

ありのままで従っておいで、必要な力はすべて与えるから、そのままのキミにわたしが働いて、

わたしの業を行うから、わたしの栄光を現すから ・・・ 」


                                                         

主はご自分の選びのゆえに、ご自分の召しと贖いのゆえに、イスラエルをこよなく愛されています。

この愛は、キリストにあって私たちにも注がれています。私たちは神の愛の中で、特別な存在です。

 

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鍛錬

2023年06月09日 | キリスト教

「しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい。」

                     Ⅰテモテ  4章 7節 

悪いものから守られるのは、悪いものがいかに悪いかを知ることよりも、むしろ健全な教えによって自分を整えることに他なりません。

私たちは敬虔のための健全な教えはないがしろにして、知らなくてもよいような事柄に多くの時間を割きます。

 

しかし聖書ほど矛盾や錯誤に満ちた書はありません。それだけに、細かく詮索すれば、膨大な論争の種になりますが、

それは「俗悪で愚にもつかない作り話」です。

それよりも、聖書の言葉を単純に信じて、みことばが語る神様のみ心を知り、生活に生かす訓練、神を敬う訓練をしましょう。

説明できなくても、首尾一貫しなくても、信じて喜び、安心を得て、感謝が絶えなければそれ以上の幸いはありません。

 

 

 

 

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人の怒りと神の義

2023年06月02日 | キリスト教

「人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。」

                              ヤコブ  1章 20節

ここで言っている人の怒りとは、妬みや争いから生じている怒りです。

私たちは、自分がいつのまにか自分の義の中に陥っていないか、心を見張っている必要があります。

神の名を使いながら、実は神の義ではなく自分自身の義に陥っていることです。

しばしば言われるのは、「正しいと言い張るのが、正しくない。」であります。

正しいと言い張ると、そこには柔和さがなくなります。憐れみがなくなります。へりくだりがなくなります。

しかし、これらこそが神の義に至るものであり、自分の理解する正しさではないのです。

私たちはその心をイエスの十字架の血潮のゆえに消し去っていただかなければなりません。

 

「義」とは正しいことですが、絶対的に正しい方は神以外にありません。

人はとかく「自分は正しい」と「己の義」を主張しますが、それは神の義にくらべると、無に等しいものです。

「怒り」は自分の義を貫こうとするものです。そこには神を畏れる心はありません。

むしろ、神に取って代わり、自分が裁き、報復しようとしているのです。

どんなことも、全てを知り、また報われる神に委ねようではありませんか。

 

ヤコブ 4:1
「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。」

箴言  13:13
「みことばをさげすむ者は身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける。」

エペソ 4:26~27
「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」

詩篇 4:4~5
「おそれおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。義のいけにえをささげ、主に拠り頼め」

 

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