「 どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。」
詩編 19編 15節
ユダヤ人が購い主と言うときは、自分が窮地に陥り、全財産を失い、自分実まで奴隷として売り渡さなければならないようなとき。
犠牲を払ってまで買い戻し、助けてくれる親戚の事なのです。( 買い戻しの規定として、ヨベルの年と言うのがあります。
もしその人が身売りしたままで買い戻されなかった場合、ヨベルの年にはその人も、その子供たちも手放される。レビ 25:54 )
私たちにとっては、いのちを投げ出し、全身の血を流しきって、滅びから、裁きから救ってくださるイエス・キリストこそ贖い主です。
そんな贖い主に、「 私はこんなこともあんなこともしました。認めてください 」 と、まるで商取引のようには祈りません。
私たちには主に差し出すべき物は何もなく、御前に祈る祈りの言葉をお受けくださいと祈るばかりです。
心の底から沸き上がる信頼、願い、感謝と礼拝の思いと言葉だけしかありません。しかし、神はどんな供え物に勝って、
へりくだった信頼と祈りをお受け下さるのではないでしょうか。
聖書から
「あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。」 箴言 3:34
「心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」イザヤ 57:15
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」 ロマ 12:1
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