マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

天に宝を

2015年07月31日 | 聖書

 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。

帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。

そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

                                                 マルコ 10章 21節

まず最初に知っていたいことは、ユダヤ人は、繁栄は神からの好意と祝福のしるしであると理解しています。

しかし、イエス。キリストの教えは異なっています。神の国を目指すときには、富や生活の繁栄ではなく。

まず、神の国とその義を第一に求めるべきであると言っています。そして、この優先順位を崩す最大の危険は、

世の富を思う心 ( 世の欲 ) です。心が世の富を慕えば当然それを愛し、それに依存し、それに仕えることになります。

さて、イエスにある人が尋ねました。「永遠のいのちを受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」 と。

イエスは「貧しい人のことを考えなさい。」 と提言します。まじめに働いて金持ちになった彼が、貧しい人に無関心であることは、

イエスにはとても残念なことでした。彼は何も悪いことはしていませんでした。しかしなにも善いことをしていないのが

問題なのです。

私たちは悪いことをしないために生きているのではないのです。決して悪いことはせず義務を忠実に果たしていても、

他者に対して冷たい人もいます。無関心であったり、一切関わらない人がいます。

イエスにとっては、そのような人こそ残念な存在なのです。

「 あなたが持っているものを与えなさい  それはあなたが考える以上に  だれか他の人にとっては

すばらしいものであるかもしれないのですから 」   ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー 

聖書から少し。

「 生涯、憐れんで貸し与えた人には/祝福がその子孫に及ぶ。」   詩編 37:26

「  だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」 マタイ 6:33

 

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どんな貪欲にも

2015年07月24日 | 日記

 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、

  人の命は財産によってどうすることもできないからである。」           ルカ 12章 15節

 

貪欲とは、語源 「 もっと多く持つ 」 と示している通り。飽くことなき欲望のこと。

それは、肉と肉の心を楽しませるという貪りです。新約聖書のコロサイ 3: 5 と言う所では、

この貪りが偶像礼拝なのですと言っています。

さて、病気になったら十分に治療をしたい。子供をいい学校へやりたい。家を建てたい。新しい事業を起こしたい。

困っている人を助けたい。など、いろいろ思うことがあっても、お金がないと何もできません。

中には、お金さえあれば何でもでき、すべての問題が解決すると思っている人だって何人でもいます。

でも、イエスはそのお金が人を惑わすと言うことをよく言われました。私たちはこの世を去るとき、全てのお金を、

そしてそのお金から得た全てのものを、みんなこの世において神の前に立つんだと言うことを忘れて暮らしています。

自分の持っているお金を有効に使って、自分や他の人に役に立て、神に喜んでいただけるようにすることが、

本当に豊かなことではないでしょうか。

 

聖書から少し

「 私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

                                                     ヨブ記 1:21

「 金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。

  「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」             ヘブル 13:5

「  神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。」  詩編  10:3

 

何はともあれ、神の国を求めなさい。この原則を適用して生活するときに、「 そうすれば、これらのものは ・・・ 」

とあり祝福されるのです。

 

 

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私ではなく神

2015年07月18日 | キリスト教

「 なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。 」

                                           ルカ 6章 46節

「 美しい言葉の数々は、立派な行いの代わりとはならない。」

私たちが神のことを考えるとき、よく 「困った時の神頼み」 と言うことばを使います。

私たちはすべてが順調に言っているとき、問題は全部自分で片づけられるように思っています。

祈りをしたり神に頼みごとをしょうとは思いません。しかしいったん何か困ったことがおきると、

人は性急に 「 神よ。仏よ。 」 と言い始めるのです。( あなたの自由になる神があなたの望む神 )

そのような人の心は、神に仕えるとか、仏の道を歩もうという考えよりも、

自分の望んでいることをしてもらいたい、自分の願いをかなえてもらいたい、と言うことが先に立っています。

そこでイエスは言われました。

「なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか」 と。

この言葉によってイエスは、神に対する人の態度が根本的に間違っていることを示されました。

私の主 ( あるじ ) であるのは私ではなく神です。

 

聖書から

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、

天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」     マタイ  7:21

 

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、

わたしについて証言しているのです。 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」 

                                                          ヨハ 5:39 ~40

 

 

 

 

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ここに愛があるのです

2015年07月10日 | キリスト教

「 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、

           なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

                                                       Ⅰヨハネ 4章 10節

原文では「ここに愛があるのです」 から始まり、「 愛は神から出ている 」と記されています。

また、神の子供とされた私たちは、「神から出た者です。」 その愛なる神はその愛を具体的な形で私たちに示されました。

さて、私たちが人として罪から赦され、神の恵みによって生きるために、神はその御子を遣わし、

十字架で死ぬほど私たちを愛してくださいました。救いは、私たちが神を愛したその報いとしてではなく、

神が先に私たちを一方的に愛してくださったと言うことです。

人から頼まれたから何か手を貸すというのではなく、まず先に近づいていく姿勢が愛だと言われるのです。

感謝されるために行うのではなく、報いられなくても、もともとなのでしょう。

愛というものは、その効果、感謝、お返しを期待しないものです。相手が善い人で、自分の愛を受けるのにふさわしい人だから

愛するのではないのです。神の愛は、私たちが人間だから愛されているのです。

それは私たちがもっともっと人を愛する人になって、愛が広がっていくためでした。

もし愛がなかったのなら神を知らないと言うことです。 「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」 

 

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へセド

2015年07月03日 | 聖書

 

「 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」

                              マタイの福音書  5章 7節

「あわれみ」について少し。この言葉はヘブル語で「へセド」と言います。これは翻訳しにくい言葉で、

普通使う「同情」という意味でもなく、困っている人を「気の毒に思う」という意味でもありません。

へセド(あわれみ)は、他の人の心の中にまで入ってその人の立場でものを見、その人の身になって考え、

その人が感じるように感じることです。そのためには、ただ気の向くままに同情するのではなく、

ハッキリとした心情と意志とが必要です。それは、言わば外から与える道場ではなく、真剣に相手の立場に自分を置いて、

相手と同じ気持ちでものをみたり、感じたりすると言うことです。

さてイエス・キリストは受けるよりは与える方が幸いであると言われました。罪のない身の上に人の全ての罪を受けて下さり、

苦しみ、血を流し、その命を投げ出してあなたを愛し、あなたを救ってくださいました。キリストは人を新しく生まれさせ。

生きる望みを抱かせることができるお方です。このあわれみとは、愛が現実に表され、その具現化したものです。

キリストのそのためら人からあざけられ、ののしられ最後には命まで投げ出され、人の罪を赦し、

裁きからあなたを救ってくださいました。十字架こそ神の愛の実証です。あわれみとは愛の実行です。

キリストの故にあわれみを働かせるときに、私たちはキリストに似たものにしていただけるでしょう。

聖書から少し

「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」

                                                           ヤコブ 2:13

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