マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

分かってもわからなくっても。

2019年03月29日 | キリスト教

「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」
                        伝道者の書 11章 1節

「あなたのパンを水の上に投げよ」という命令も、神のご計画とみこころ、御旨、目的を

実現させることにかかわる事柄です。水にパンを浮かべ流したら、たちまち溶けて分解、

再び原形を取り戻すことはできない。この比喩は、与えるだけで代償を求めない無償の愛(アガペ-)

を教えている。代償を求める愛は、相応な報いがないと不満がおき、不満が溜まり次第に増幅し、

憎しみ湧き心が揺れ、怒りとなり愛に報いぬ相手に向かって爆発する。多くの人々は今も愛と憎の狭間で

悩み苦しんでいる。イエスは報いを求める不完全な愛を否定している。

ここは、パンをみ言葉に例えてみましょう。私たちが礼拝を通して聴く聖書のことば、

心にどれほどとどまっているでしょうか。水に浮かんで流れていくパンのようかもしれませんね。

しかし、ざるも水の中につかりぱなしにしておくと溺れません。

そのように、わかっても、わからなくっても、心にとどまることがなくても、聞き続けることによって、

いつの日か実を結ぶ時が来るのです。善は報われる。今直ちに報われるかどうかを考えずに、

為すべきことを為せと言われているのです。

Ⅱ テモテ 4 : 2
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良 くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、

絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」
 
 
 
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昔からずっと。

2019年03月22日 | キリスト教

「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。

その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」  
                                        イザヤ 63章 9節

この「ご自身の使い」は、ヤハウェの使いであるイエス・キリストご自身です。

イスラエルが旅をしているときに、主の使いが前を進むことを約束しておられました。

そして主は、イスラエルの苦しみと一つになってくださいました。

これが神の民であることの特権です。主イエス様は、私たちの弱さに同情できないような方ではない、

とヘブル書にあります。私たちを遠くから眺めて、苦しんでいる私たちに教訓を与えるような方ではなく、

いっしょに苦しみを感じてくださっているのです。

神は私たちの苦しみを無視するのではなく、ともに悩み苦しんでくださると言っているのです。

神は私たちの悩みのただ中に入ってくださり、ともに悩んでくださるのです。私たちの悩みを理解して、

どうすればよいかを考えてくれるのです。それだけではなく、そこから救い出して、

さらに罪の中に欲望の奴隷になって自分を失っているものを神は買い戻して、

生き生きとして自由な愛のある人生に変えてくださるのです。それがここに言う贖いということです。

このことが最もよくあらわされているのがイエスの十字架の死です。神は常に私たちを見守ってくださるのです。

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神が望んでおられる。

2019年03月15日 | キリスト教
 
 
 

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
     へブル 11章 1節

毎日聖書を読み、メッセージを聞いて、わかっているつもりでおりながら、なかなか信じ切って、

すべてをゆだねきれない私たちです。このみ言葉にあるように。

また、ルカ 22:42 で「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。

しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」このように言われているように。

イエスの御父への絶対的な信頼を忘れることなく、今日も心にしっかりと止めてて歩んで行きたいものです。

また、「信仰」とは、自分が願っているものを何回も自分の心に言い聞かせて、

それがかなえられることを神に押し付けることではありません。そうではなく、神が言われたこと、

また神が願っておられることを、そのまま自分の心に受け入れて、なんの疑問も提示せず「しかり」と納得し、

確信することなのです。その目に見えないことが自分の中で体験されていることになります。

天において、信仰によって歩んだ人が報いを受けるのですが、それが私たちの希望です。

したがって、望んでいると言っても、私たちが望んでいるのではなく、

むしろ神が私たちにすがってほしいと願っておられる事柄を指しています。

ローマ 14:22
「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。
自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。」
 
へブル 10:39
「しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」
 
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最高の律法

2019年03月08日 | キリスト教

「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」
という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。」
                              ヤコブ  2章 8節

主なる神は人をご自身の姿にかたどって造り、そのうえ自由意志というものをお与えになりました。

そして、人は神に逆らうことを覚え、そのために、自分自身をも滅ぼすことさえできるようになりました。

これは一つの謎と言えます。現在私たちの目前で見られるいろいろな現象はこの謎の恐ろしい一面です。

しかし人はまた他方で、この自由意志のために、自ら進んで神に仕え、隣人のために尽くし、

永遠の救いを勝ち取ることもできるのです。なんと大きな違いでしょうか。

神からいただいた「自由」を自由に使いこなすことは悪いことではありませんが、

一致、真理、そして隣人への愛のために自らの自由を放棄することができるのなら、

これこそが自由の最も素晴らしい使い方ではないでしょうか。


「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」というのは、もちろんイエス様が最も大切な掟で

あるとして引用された、レビ記 19 章 18 節の言葉です。ヤコブがこの手紙で頻繁に話している「律 法」とは、

いわゆるモーセの律法というよりも、イエス・キリストによってまとめられた新たな命令と言ったほうがいいです。

キリストがあらゆる律法をまとめて、まず神を愛しなさい、そして、そこには 自分自身のように

隣人を愛しなさいという戒めが同時に付いてきます。
 
大事なのは、「最高の律法」と訳されているところです。これは、「王の律法」と訳すことのできるものです。

栄光の主イエス・キリストの律法でありますから、王なるキリストの律法ということです。

つまり、これは王権をともなった、絶対権威のある、畏れ多い律法であるということです。

この律法に違反する者なら、それ相当の罰が伴うというものであります。

私たちは、キリストの御国にいます。そして、王なるキリストが与えられている掟の中に生きており、

それがこの隣人を愛するという 掟なのです。
 
 
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私の味方は。

2019年03月01日 | キリスト教
「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」
                                            詩編 19篇 14節
 
ユダヤ人が贖い主というときは、自分が窮地に陥り、全財産を失い、自分の身まで奴隷として売り渡さなければならないようなとき、
 
犠牲を払ってまで買い戻し、助けてくれる親戚のことなのです。
 
私たちにとっては、いのちを投げ出し、全身の血を流し切って、滅びから、裁きから救ってくださる主イエス・キリスト
 
こと真の贖い主なのです。そんな贖い主に、「私はこんなことをしました、認めてください」と、まるで商取引のような祈りません。

私たちが差し出すべきものは何もなく、御前で祈る祈りの言葉をお受けくださいと祈るばかりです。
 
心の底から湧き上がる信頼、願い、感謝し礼拝の思いと言葉だけしかありません。しかし、神はどんな供え物にも勝って、

へりくだった信頼と祈りをお受けになってくださるのです。
 
また、自分の心の思 い、また口から出る言葉が神に受け入れられたものとなっているように願っています。
 
そのためには、神の贖いが必要です。自分の罪を赦し、清め、そして神が自分をご自分のものとしてくださる 働きが必要です。
 
この詩編のみ言葉を、私たちの祈りにしたいと思います。自分が発する言葉において、主に受け入れられるものであるように。
 
また、心の思いが受け入れられたものでありますように。情欲、ねたみ、怒りなどの悪い思いを心の中にとどまらせることがないように、
 
お祈りしましょう。
 
ミカ 6:8
「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。

正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」


 
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