マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

べテスタ( あわれみ ) 

2022年03月25日 | キリスト教

イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。

                      ヨハネ 5章 6節

このイエスの言葉は同時に、私たちへの言葉でもあます。「あなたたちも希望をなくしているのではないか」、

私たちのある者は、何十年も教会生活をしており、毎週、聖書を読み、説教を聴く。

しかし、何も起こらない。生活はいつも通りだし、心に喜びがない。私たちもまた希望をなくしているのではないか。

その私たちにイエスは問いかけられる「良くなりたいか」。希望を回復しなさいと。

 

水野源三さんは41年寝たきりの人生を送ったが、いつも生かされていることを感謝していた。

「生きている、生かされている、歯が痛き、手足がかゆき、咳が苦しき」。

「幾たびも、ありがとうと声出して、言いたしと思い、今日も暮れゆく」。

「もしも私が苦しまなかったら 神様の愛を知らなかった。多くの人が苦しまなかったら 

神様の愛は伝えられなかった。もしも主イエスが苦しまなかったら 神様の愛は現われなかった」。

                            水野源三・短歌と詩集から

 

「私は癌になった時、ティーリッヒの“神は癌をもつくられた”という言葉を読んだ。

その時、文字どおり天から一閃の光芒が放たれたのを感じた。神を信じる者にとって、神は愛なのである。

その愛なる神が癌をつくられたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとはいえないのではないか。

“神の下さるものに悪いものはない”、私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。

すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていた」。          三浦綾子・泉への招待から

 

三八年も病気で苦しんでいた男が、ベテスダという池のそばにいました。

水が動くとき、真っ先に飛び込んだ者が癒されるという言い伝えがあったからです。

しかし、自分が飛び込もうとすると、他の人が飛び込み、そのチャンスを逃していました。

主イエスはこれを見て、この男に声をかけ癒してやりました。この男の苦悩と孤独は、

肉体の苦しみの上に心の苦しみ、孤独が付きまとっていました。

私たちが悩むときもまた同じです。人に話すことができない、

あるいは、分かってもらえない孤独感が付きまといます。

しかし、主キリストは神の御子として救い主として、

私たちと共にいてくださいます。

 

 

 

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マラナ・タ

2022年03月18日 | キリスト教

「 人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。」

          マタイ 25章 31節

 

「人の子」とはメシア・イエスことです。

その方が「栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき」とは、メシアの地上再臨を指します。

その時、キリストは、信じている者たちのために、報酬を与えるために戻ってこられます。

そして、ここからはご自分が地上に戻っておられる話をしています。

まず、イエスは、地上に来られると、神の御国における栄光の位に着きます。

おそらく、その座は「ダビデの座」と呼ばれ、エルサレム(シオン)に据えられます。

 

人の子であるイエスが、ハルマゲドンに集結した反キリストによる異邦人の軍勢をエルサレムにおいて滅ぼした後に、

地上で御国の王となり、栄光の座に着かれるのです。これはイザヤ書9章7節の成就です。

 

さて、この世の中で善く生きた人間は、死んだ後に善いところに行く。悪く生きた人間は悪いところへ行く、

こういう思想は世界の至る所、あらゆる民族のうちに何らかの形で見いだされる。

ソクラテスは人間の魂の不死であることを証明しようとして、いよいよ死が迫ってきたところで、

死んだ後に善い魂は善い所に行く、自分は善く生きてきたからこれから行くところで、善い人に出会うのが楽しみであると、

そのようなことを言っています。また仏教のほうでも地獄と極楽ということを言います。

 

キリスト教においても、天国と地獄ということが語られています。不思議な一致ですが、

キリスト教以外の死生観は「恐れ」に成立っており。そこの「根」のところが大いに違うのです。

私たちは知っています。主イエスに助けられて初めて善く生きることができるということを。

 

イザヤ 9:7
「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、

その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。

今よりとこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。」

 

コロサイ 3:4
「 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、

あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。」

 

 

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神に委ねよう。

2022年03月11日 | キリスト教

その義にふさわしく、主を、私はほめたたえよう。いと高き方、主の御名をほめ歌おう。

   詩篇 7扁 18節 

ダビデは、何もやましい心も、謀反の企てもないのに、

サウル王に誤解され、嫌われ、中傷され、命をつけ狙われました。

そんな時、私たちは相手を呪ったり、攻撃をしがちです。

しかし、ダビデはまず第一に、我が身を神のところに持っていき、神に身を投げ出しました。

第二に、神の前に自分を洗いざらい投げ出して光に照らされ、反省しました。

そして、第三に、神の正しい裁き、弁護を求めました。

そして、その結論がこの賛美です。心の中から、神への賛美、感謝の歌が流れ出るなら、

あなたの悩み苦しむ心が、正しい結論へ到達した確かな証拠です。

そして、心から溢れる感謝や賛美は、現実的に、実際的に、問題の扉を開き、解決へとこぎつける力となるのです。

 

詩篇 26:1-2
「主よ、あなたの裁きを望みます。私は完全な道を歩いてきました。

主に信頼して、よろめいたことはありません。

主よ、私を調べ、試み、はらわたと心を、火をもって試してください」。

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変えてください。

2022年03月04日 | キリスト教

恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。

主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。

                        詩篇 4扁 7節

この言葉は「だれが、我々に良いことをくれるのか。」という反語的な表現です。

神を信じたところで何の益があろうか、という世の声です。

 

祝福、恵み、平安に満ちた人生の秘訣は、神の光りの中を歩むことです。

私たち人間は、神の光が届かない暗闇の中に人間の自由があり、楽しみがあると考えています。

しかし、このダビデは、神の光りの届かない自我の暗闇の中でとんでもない経験をしました。

ダビデのような大人物でさえ、姦淫と殺人の罪に陥り、辱めの極限と魂の苦しみを経験したのです。

そしてダビデは祈るのです。「神よ照らしてください、神・主、あなたの光りの中に、今日も歩ませてください」と。

罪のはかない楽しみ、エゴの自由を求めると神から身を隠れたい、暗闇の中に歩みたいと思うようになるのです。

しかし、本当の輝く、力強い、喜びに満ちた人生を歩もうと思うのなら、この神の光りの中を歩むべきです。

主の光りだけが、私たちの人生から暗闇を追い出すことができるのです。

 

今この時代は、世の中がどんどん暗くなっていて、希望がないのですが、

神に振り向く人たちは本当に少ないです。だから、本当に神に希望があるのだということを、

私たちを通して現してください、という祈りをしたいです。  アーメン

 

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