マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

その一歩の真実。

2022年11月26日 | キリスト教

「 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

             マタイ 11章 28節

イエスはまず、「わたしのところに来なさい。」と言われました。これは、イエスと個人的な関係にはいることの招きです。

私たちは、イエスの言葉を聞いて、それに同意できるかもしれません、また、それを頭で信じることもできるかもしれません。

しかし、もし、自分の救い主として、自分の心と人生にイエスを受け入れるのでなければ、ここに約束されている安息を得る事はできないのです。

神を知るというのは、いわゆる知識のことではなく、夫が妻を知るような意味であり、親密で深い関係を示します。

この関係の中で、はじめて安らぎを得る事ができるのです。

 

私たちは、神のために存在しているのですから、そのように生きていけば安息があるのです。

ところが私たちは自分を喜ばそうとします。自分の心を何か他のもので埋めようとします。

疲れている原因を自己吟味してみましょう。何かやりすぎていることはないか? 自分で何かをやっていないか、

そしてそれは実は自分を喜ばすためにやっていたのだ、ということです。また、この重荷は他の人から負わされることもあります。

 

主なる神があなたに近づかれた。それは、父の方から遠く離れているあなたのところまで歩んできてくださいました。

しかし神は。あと一歩をあなたのために残された。あなたはきっと言うでしょう。「 最後の一歩を何故残されるのですか 」と。

しかし主は言われます。「 あなたの歩みは、一歩、いや半歩でいい。」と。

そして神はなお言われた。「 私はあなたのその一歩の真実を見たいのだ 」と。 父よ。私に勇気を与えてください。  

「つかれしものよ きてやすめ」とやさしくイエスまねかせたもう ……… 聖歌 222 より
                                          
                               シャローム そして マラナ・タ 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真実な平安とは

2022年11月18日 | キリスト教

「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」

            ルカ 18章 9節

ここのパリサイ人の姿を見て、いかにも独善的な嫌な人だなと思うかもしれません。

けれども、イエス様は「努力して狭い門から入りなさい」とかって言われました。

普通にしていたらパリサイ派的なのが私たちであり、人間です。福音を信じて、その中に生きる人は少数なのです。

 

パリサイ人がそうでした、そしてイエスは、このパリサイ人は神から遠い所にあると言われました。

高ぶる心の人は奉仕ができなくなります。報酬をもらい、あるいはそれ相当の評価を受けるとき、人は働きやすいものです。

そうした働きも大切ですが、人の目にふれないが、他の人のために働く奉仕の生活も大切です。

この奉仕は、神に信頼し、神にのみ信頼し、神にのみ期待する信仰と密接にかかわっています。

 

これは、自分自身を信じて生きている人たちに向けられたたとえです。

日本人の多くの人が、「私は自分を信じて生きる。」と言いますが、そのような人の心の状態は真実平安なのでしょうか。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お互いに

2022年11月12日 | キリスト教

「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」

                 ローマ 12章 10節

兄弟愛というのは、親しみと言いかえることができるでしょう。

あなたは自分たちの仲間だよ。きょうは元気かい。

今週は何が起こったの?そのような何気ない問いかけが、私たちには必要不可欠です。

そして、尊敬を持って自分よりもまさっていると思います。その人の人格を尊んで、敬うことです。

たとえ、意見の対立が起こっても、決して礼儀を失せず、慎み深くすることです。

私たちは、悪を憎むことを愛することであると知らなければいけません。

悪いことをしている人を見て、その人のために涙を流して祈らなければいけません。

「そのままでいいのだよ。」と言うのは、真の愛ではありません。

悪を憎み、そして善に親しまなければならないのです。

 

ここで求められているのは、弱々しい愛ではなく、心から溢れる愛です。

それによって私たちの心は、他の人々の悲しみが自分の悲しみであるかのように私たちを傷つけ、

他の人々の繁栄が自分の物であるかのように私たちを喜ばせる証拠を得ます。

それはちょうど、両親が子供が順調な時に喜び、失敗したり、堕落した時に非常に悩むのと同じです。

しかもこの場合、私たちは「自分のように隣人を愛せよ」という戒めを実行することには、

まだはるかに及ばないことを学ばせられるのです。

 

愛することは実に大きなことです。父が子を愛するように愛することは、すべての内で最大なものです。

 

ビリピ 2:3-4 
「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。

それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。」 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辛くて、苦しい時

2022年11月05日 | キリスト教

「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。」

           詩編 107篇 6節

私たちは苦しみの中にいるまで主に祈らないことがあります。

日本式にいえば、「困った時の神頼み」ですね。

けれども、それでも主は私たちの苦しみの中からの祈りを聞いてくださいます。

 

人生には、様々な試練があります。しかし神はそのさまざまな試練を一つ一つ恵みに変えて下さるお方です。

此処の聖句では、そのことを歌っています。この6節は苦しみの時の祝福です。

深い深い、暗いくらい井戸の底から見上げると、昼間でも星が見えると言います。

その真昼の星のように、普通では見えないものが、人生にはいくつもあります。

それは、暗い井戸の底から見上げた時に見えるのです。

食べるものや着るものに困らなかった時には見えなかった人の優しさや親切が、

貧乏のどん底に落ち込んで見上げるとき、見えてきます。もう他には何の助けも求めることができない苦しみの時、

ひたすら上に向かって叫ぶと神の救いの恵みが見えてくるのです。人生にはいろいろなことが起きてきます。

しかし神を求める者、祈る者にとっては、そのいろいろなことが、すべて神からの祝福と変えらる可能性があるのです。

すべての艱難、災いがあろうと、そこには神がおられることを知っていただきたい。

ヤコブ 5:13
「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。」

 

ヘンリー・ナウエンは『いま、ここに生きるー生活の中の霊性―』という本の中で、

「予期せぬ喜びに気づく」ということを述べています。

「私たちの住むこの世界は、悲しみに気づかせようと迫ります。

新聞は交通事故や殺人、また個人やグループ、さらに国家間の争いについての情報をとめどなく流しています。

・・そして私たちは、人と出会うとこう言います。『このことほ聞いたかい。あのことを見たかい。ひどい話だろう。とても信じられないよ。』

・・・予期せぬ喜びとは、ことが思いがけなく好転したことを指すのではありません。

そうではなく、すべての暗やみより神の光の方がはるかに現実性があること、すべての人間の偽りよりも神の真理のほうが強力であること、

そして、神の愛は死よりも強いことに気づくことからきます。」(36, 41頁)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする