マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

神の命の中で

2022年06月24日 | キリスト教

「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」 口語訳聖書

「このように、人間は、天地を造った神様に似た者として造られました。」   リビングバイブル

                                       創世記 1章 27節

神はご自分の創造物の最後に、ご自分に似せて、ご自分のかたちに人を造られました。神が自然界の全てを支配されているように、

人にその支配を任せて、人の支配を通して自然を支配するようにお定めになりました。

「ご自分のかたちに」と強調されています。ここで神は「創造された」という言葉を繰り返されています。

三度も繰り返しています。これが神の最高傑作品だからです。

動物と同じように被造物であるにも関わらず、神に似せて造られたのです。こんなすごいことはありません。

この事実だけでも、私たちが今、ここで生きているということが神の目にとって高価で尊いことがよくお分かりでしょうか?

世においては、何でもない人であっても、価値のない者とみなされていても、主の目にとっては全く異なります。


神は人を祝福される。すべての人々は神の祝福の中に生まれてくる。罪を犯した全人類もまた神の祝福の中にあり、

親が望まない形で生まれてきた人もまた、神の祝福の中にあるのです。

 

聖書は、人は意味あるものとして創造されたと主張しています。
 

イザヤ46:3-4
「生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。

わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」

 

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信仰とは

2022年06月17日 | キリスト教

「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」

                         へブル 11章 1節

「信仰」とは、自分が願っているものを何回も自分の心に言い聞かせて、

それがかなえられることを神に押し付けることではありません。

そうではなく、神が言われたこと、また神が願っておられることを、

そのまま自分の心に受け入れて、なんの疑問も提示せず「しかり」と納得し、確信することなのです。

神が言われることが、「そのとおりである」と受け入れることが信仰であり、

信仰の結果、その目に見えないことが自分の中で体験されていることになります。

 

その目を閉じて、神の御手の内に一切を、素直に喜んで委ねるなら、これは最高、最善の信仰です。

それは神がなぜ其々の働きをなされるのかを知ろうとはしません。

理性と、感覚、体験には、怒りと不正以外の何物しか見えなくっても、信仰は、神が最高の慈しみであり、

正義であることを、なおも信じて寄り縋っています。このようなわけで、

信仰は、見ていない事実を確認し、見える姿と正反対の事実を確認するというのです。

 

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