マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

従われたのです

2015年10月30日 | 日記


「 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」

                                           ピリピ 2章 6~8節

神に従うこと、これが人間の生きる道であることを、主イエスは地上の生涯において示されました。しかし、

従順であることは、なんと難しいことでしょう。私も恵みによってクリスチャンになる前は、不従順を誇っている生き方をしていました。

「どうして」「なぜ」「自分が、」とよく口に出していました。特に目上や権力者に対しては、従うことを嫌いました。しかし、

クリスチャンになってからは、主イエスは私を抑えつけ、こわし、こころみ、み言葉に従えるように訓練をしてくださいます。

人々から忠告を受けたり、( 特に自分には気の合わない人を用いて神は用いられます ) 勧められたりするとき、

主イエスからと思い従順に受取ろうとするのですが、なかなかできません。

この不住順にしか生きることの出来ない私の身代わりに、主イエスは神の罰を身に受けてくださいました。

不住順の罪が赦され、その罪から解放されるためにです。本当に感謝です。主イエスがご自分の神性を捨てて、

私たちと同じ姿を取られた時、主イエス ( 父なる神 ) は、私たちが思いも及ばない犠牲を払われたことを、

ここではっきりと書かれています。それは私たちの理解を凌駕するものです。そして、私たちは幸いにもその大きな愛を

経験し、その愛を敬慕することができるのです。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子どものように

2015年10月23日 | キリスト教

 

「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

                                             マルコ 10章 15節

ここで言われている「子供」とは、自分の弱さを知らず、自分を過信している者のことです。すなわち、宗教的な規律を守り、

道徳的なことを行ってさえいれば、救われると考えている。自己中心的な考えを持っている人のことです。

しかし、人の努力や行いでは決して神の国に入ることは出来ないのです。

ここで主イエスは子供が無邪気で罪がないから、(本当は、 肉の父親によって流れている血故に原罪が継承されています。

しかし、子は親に対してもそうですが、縋らなければ生きていけない、それ故に素直に親の言うことを聞こうとしています。)

そのことで、信仰のサンプルにされたのではありません。主イエスの言動を素直に受け入れる態度を強調されたのです。

子供のように神の言葉を信じ、初めて確かな行動が生まれてくるのです。

聖書の言葉は、私たちの理解力と経験によって納得できるものではありませんが。(もし納得できる神ならそれはもう神ではない)

重要な部分である天地創造とキリストの処女降誕、キリストの十字架の死と復活などを子供のように素直に信じて受け入れていくと

だんだんと分かってくるようになります。

こうして信仰が、挫折して迷ったり不安になったり裏切られたりしながら生きていく私たちを根底から支え活力を与えてくれるのです。

使徒であるパウロはこう言っています。「 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。

その中で一番すぐれているのは愛です。」 Ⅰコリント  13:13 と確信を持って言っています。また父は、子供が

成長することを願っておられるのです。「 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、

完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」 エペソ  4:13

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祈る事と待つ事

2015年10月16日 | キリスト教


「 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」

                                                  マタイ 7章 7節

神よりの約束を頂くと、忍耐が始まる。そのとき私たちのすることは、神が、神が良いと思われる方法で、知恵と愛を持って、

必ず私たちの祈りに答えられることを握ることです。また、気落ちせず祈る生活をすることです。この諦めず、

祈り求めて行くときにその祈りが真実正しいのかが調べられ、神のみ心に従ってその祈りは与えられるのです。

さてここで主イエスは、「あなた方の父は、願う前からあなた方に必要なものご存知だ」と言っておられます。

にもかかわらず、「祈ること」の大切さを教えておられるのです。信じることと祈ることとは、表裏の関係にあります。

全能の神を信じる者はその神に祈るのです。イエスは求める者は受け、探す者は見つけ、

門を叩くものは開かれると約束されています。

私たちは不条理で納得いかないことの多い生活の中にも神が必要に応じて導き、助けてくださることを信じて

生きていく者です。ですから、その動機や思いの中には良いことも間違っていることもありますが。

「イエスのみ御名」によって安心して祈ることができるのです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

養子縁組

2015年10月09日 | 聖書


「 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、

          愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」                エペソ 1章 5節

 

神はその恵みによって私たちを神の子とすべく養子縁組をハッキリ、不変のこととしてきめておいてくださったと言うことです。

その恵みとは 「 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。

これは神の豊かな恵みによることです。 」 です。

私たちには神の子とされるような素晴らしいことをした覚えはあるでしょうか。私たちは好むと好まざるにかかわりなく、

みな罪人として生まれてくるのです。そのように私たちは生まれながらの嘘つきで、反抗的で、生意気に何でも分かっている、

出来ると思いがちです。ですからそれはこの世で思い切り叩かれ、打ちのめされ倒れて、不安でやり切れなくなる時までのことです。

それなのに神の愛は、私を愛してこんなふうになることを知りながら、私たちを養子縁組として、

神の子とすると決めておいてくださるのです。神は、私たちを暗闇から光へと招いてくださいます。

それは御子イエスの贖いの業の中にはっきりと決められているのです。

聖書から少し

「  しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、

また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、

私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、

神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、

あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

 しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。」  ガラテヤ 4:4~8

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

救い主はいない

2015年10月02日 | キリスト教


「 目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方

/それぞれの名を呼ばれる方の/力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。」  

                                    イザヤ 40章 26節

聖書には、あなた方は神を誰になぞらえ、神をどんな姿に似せようとするのかと、創造主の神を

何か目に見える形に置き換えてはならないと語られています。

人間は、人の栄光に魅惑されやすい、また、人間の力に容易に屈服して、神を忘れやすい私たちに、

まことの神の独一性、偉大さを知るように、まことの神の力強さを改めて認識し、

信頼するようにとの励ましがここに書かれています。また私たちは、目に見えたり頭で理解できる形に、

神や天国を置き換えたいと思う性質を持っているようです。けれども天地万物この宇宙をもお造りれになった神を、

完全な形で表現したり理解したりすることは、私たちには出来ません。

( もし表現をし理解できるならば、それはもう神ではなく人の作ったものです。 ) 今日の聖書のみ言葉を味わう時、

ちっぽけな私たち自身の思いや考えに目を向けて窮屈に生きるのではなく、目をお造り主なる神に向けて、

この神の壮大なビジョンに生きてゆきなさいと語っておられるようです。私たち自身の神概念がどれほど

大きいかて、私たちの生き方が決まります。

聖書からすこし

「お前たちはわたしを誰に似せ/誰に比べようとするのか、と聖なる神は言われる

 目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方/

それぞれの名を呼ばれる方の/力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。」   イザヤ 40:25 ~26

「  わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。 」       イザヤ 43:11

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする