マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

祈りなさい。

2020年12月25日 | キリスト教

「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。…… 。」

                 マタイ 5章 44~45b

ある大学の心理学の時間に、先生は一つの興味ある問題を出しました。

「諸君が嫌いだと思っている人の名を出来るだけ多く書きなさい。」学生は一斉に書き出しました。

その結果、意外なことに、一番多く名前を書きだした人が、そのクラスの中で一番嫌われている人で、

一番少なくしか書けなかった人が一番みんなから愛されている学生でした。

このことから、あの人と仲良くなれないと気が付くことがあったら、自分自身を落ち着いて反省してみる必要があります。

自分自身の中に仲良くなれない原因があるということです。

私たち人間は、孤立している存在ではなく、一つの群れ、仲間として生活するように造られ、

導かれていると聖書には書かれています。他人という存在は自分を映し出す素晴らしい鏡と思って、

仲良く交わり、自分を成長させていきたいものです。

神は罪人(あなたのことですよ、すみません、余計なことでした。)をも愛されています。

ですから、神の愛されている人々を、私たちも愛さなければなりません。

少し厳しいですが、出来る、出来ないではなくそうしなさいと言われるのです。

ロ−マ12:9−13
「愛に偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し。

尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。

希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、

旅人をもてなすように努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。」

 

 

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恥じない

2020年12月18日 | 聖書

「【主】よ。私はあなたに身を避けています。

      私が決して恥を見ないようにしてください。」

                        詩編 71篇 1節

ユダヤの人々は、恥を恥とする民族です。そして日本人もまた恥を恥じる人種です。

私は人間として本当に恥ずかしいことが二つあると思います。

その一つは、「罪」です。私たちの心の汚れ、内面的な卑しさです。

ジョン・ウェスレーは「罪のほか恥ずべきものは何一つない」と言いました。

私たちはたとえどんなものを恥じても、この「罪」を恥としないならば、

それは最も恥ずかしいことです。神はどんな隠れた罪もご覧になります。

そして私たちが本当に恥ずべきもう一つのことは、こんな罪深い私を愛し、

私のために十字架の上で血を流し、罪を赦してくださった神に恥じることです。

神は愛と恵みに満ちたお方です。あなたを愛して育ててくださるお方です。

このようなお方を恥とすることほど恥ずべきことはありません。

神に恥じない生活こそ、恥をかかない人生です。

 

神に身を避けるわたしたちには、希望があり、神は私たちを見捨てはされないのです。

「収容所を生き残ったのは体力の優れた者たちではなく、

希望を失わなかった者たちだった」

ヴィクトール・フランクル(夜と霧〜アウシヴィッツからの帰還より)。

 

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平和について

2020年12月11日 | 聖書

「 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」

   マタイ 5章 9節

国際的な平和という大きな問題について考えてみたいと思います。

第一に、
平和の実現に欠かすことができないのは正義です。ある国が他の国から不正に取り扱われている限り、

社会の平和も世界の平和も実現することはできません。

第二に、
必要なのは、真実です、自分の国だけが正しく優れており、他の国や民族は劣っていると言った

曲解された考えを持っている人は、平和を実現する人にはなれません。

第三に、
対話がぜひとも必要です。聞く耳を持たずに怒鳴り合っていたのでは何の進展も得られないでしょう。

理性的に行われる対話によって相手の立場を理解し、相手のみている真理の一面を知って、

ともにもっと全面的な真理を、そして相互理解を深めることができるようになると思います。

 

パウロは、「あなたがたは、自分の関する限り、すべての人と平和を保ちなさい(ローマ12:18)」と言いました。

そして、平和をつくる者が神の子と呼ばれるのは、神が平和の神だからです。

パウロはまた、「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。(ローマ16:20)」と言っています。

 

そして、神との平和は神の平和につながります。私たちの心が、自分の理解を超えたところの神の平和で守られるのです。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、

あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、

あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6-7)」

 

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互いに

2020年12月04日 | キリスト教

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」

            ガラテヤ 6章 2節

キリスト教の特徴の一つは、分かち合いの精神です。私たちが人生の各段階で背負う重荷は、実に様々ですが、

もしその折々の苦しみや辛さを、誰かが熱心に聞いてくれたら、ずいぶんと慰められると思います。

それはすぐ、その苦しみの解消にはつながらないでしょうが、じっと自分の話に耳を傾けてくれる人がいるという、

その事だけで、私たちは自分の重荷を背負い直し、生きていく勇気与えられます。

「分かち合う喜びは二倍の喜び、分かち合う苦しみは半分の苦しみ」という美しい諺があります。

誰でも何か嬉しいことがあったら、すぐに家族や友人たちに知らせて、一緒に喜んで欲しいと思うでしょう。

同じように辛いことや、悲しいことが起こったとき、その苦悩を分かち合える人がいたら、どんなに大きな心の支えとなるでしょう。

 

クリスチャンは、それぞれが独立して、一匹狼のように生きたりする存在ではありません。

あるいは、自分の悩み相談室のように、自分の悩みが解決されることだけを求めて教会に来るのでもありません。

孤立するのでもなく、依存するのでもない、「互いに重荷を負いあう」仲が、クリスチャンの間に必要なのです。

 

キリストはだれも担えない重荷を私たちに代わって担ってくださったという事実があります。

そのことによって、私たちは救われた(贖われた)のです。私たちはキリストの十字架という贖罪の恵みを受けたのですから、

キリストにある兄弟たちが互いに重荷を負い合うことは当然のことなのです。

そして、それによって「キリストの律法を成就することになる」のです。

 

 

 

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