マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

仕える恵

2018年07月27日 | キリスト教

「 気前のよい人は自分も太り/他を潤す人は自分も潤う。」

                   箴言 11章 25節

「惜しげなく人に施して、ますます金持ちになる人もあれば、財布のひもをぎゅっと締めていながら、

文無しになる人もいます。物惜しみしない人が金持ちになります。 人をうるおして自分もうるおうからです。」 

                       箴 11:24 -25  リビング・バイブル訳より


奉仕とは、経済的、時間的労働の上で犠牲が求められます。これは避けることができない犠牲ですが、

この犠牲には恵みが伴います。その恵みの値打ちは計り知れないものなのです。

私たちのささやかな犠牲と奉仕によって、「他を潤すものは自分もうるおされる」という経験をする恵であり。

さらに主イエスにあって行われる犠牲には、永遠の生命が約束されています。

イエス・キリストは「自分の十字架を負い、そして私についてきなさい」と言われ、

またその報いとして、「この世では何倍もの報いを受け、後の世では、永遠の命を受ける」

と約束してくださっています。


自分が今持っているものを、自分で守ろうとする窮屈な心、上からの祝福を完全に度外視しているところには、

このあふれ出るような祝福は流れません

 

イエスは与えることで、他を潤す人を祝福しています。

ルカ6:38

「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、

ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

 

箴言11:25-31

「気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う。穀物を売り惜しむ者は民の呪いを買い、

供する人の頭上には祝福が与えられる。善を捜し求める人は好意を尋ね求める人。

悪を求める者には悪が訪れる。冨に依存する者は倒れる。神に従う人は木の葉のように茂る。

家に煩いをもたらす者は風を嗣業とする者。愚か者は知恵ある人の奴隷となる。

神に従う人の結ぶ実は命の木となる。知恵ある人は多くの魂をとらえる。

神に従う人がこの地上で報われるというなら、神に逆らう者、罪を犯す者が、報いを受けるのは当然だ。」




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あなたが必要です

2018年07月20日 | キリスト教

「だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、

また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。」  

                                 Ⅰコリント 12章 20~21節

 

パウロは、教会と人類を人間の体にたとえました。人それぞれが目であり耳であり、足であったりするわけです。

目と足とは、いくら話し合ったとしても、お互いが決して理解し合うことはできません。

ご存知のように目が、明暗や色彩を中心にして、何が明るく楽しいかを語ったとしても、

足としてみれば、地面が堅くって歩き難かったなどということを話題にするでしょう。

しかし目は足がなければ一歩も前進できませんし、足は目がなければ壁にぶつかってしまうのです。

ですから互いに必要な仲間なのです。

人類は、まさにこの体の各部分のような共同体を形成します。そして互いが連帯を保ちながら

生きることを求められています。誰一人要らない人はいないのです。

さて、ここで再びパウロは、より人目につくからだの器官が、あまり見ばえのしない器官に対して、

「必要としない。」と言っていることに注目してください。目が手に向かって、「必要としない。」と言っています。

また、頭が足に向かって、「必要としない。」と言っています。けれども、見ばえがよいか悪いかで、

その器官が必要なのか不必要なのかを決定するものでは、もちろんありません。

そこでパウロはキリストのからだについての、核心部分に入ります。教会と、その他の人々の集まりとの

違いを明らかにします。それは、互いの器官がいたわり合うという、からだの機能です。

今、思いやる心というものが薄れていく時代に教会がなにかを成し得ていかなければならないと思うのです。

 

 

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三寸の舌

2018年07月13日 | キリスト教

「主よ、わたしの魂を助け出してください/偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」

                            詩編 120篇 2節

 

ある人に「体の中で一番尊いところはどこですか」と聞いたら、

「舌です。神を賛美できるからです」と答えました。

「じゃあ、体で一番嫌いなところ、悪い部分はどこですか」と聞くとこう答えました。

「舌です。人を傷つけ、人を殺すこともできるからです。」と言われました。

考えてみますと、三尺の剣より、三寸の舌のほうが、人を傷つけ、人を殺します。

悪意に満ちた中傷のことば、告げ口もありますし、悪意はなく本当のことを言っているとしても、

愛の配慮、思いやりの知恵がないために、グサリと人を傷つけて殺すことばもあります。

私たちは、人々の偽りの唇、欺きの舌から守られたいと思いますが、まず自分自身が偽りの唇、

欺きの舌を用いないことを願い求めるべきではないでょうか。

 

箴言 10:20

「神に従う人の舌は精選された銀。神に逆らう者の心は無に等しい。」

箴言 21:23

「 自分の口と舌とを守る者は、自分自身を守って苦しみに会わない。」

詩編 35:28

「わたしの舌があなたの正しさを歌い/絶えることなくあなたを賛美しますように。」

Ⅰサムエル 23:2

「主の霊はわたしのうちに語り/主の言葉はわたしの舌の上にある。」

 

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主が喜ばれる

2018年07月06日 | キリスト教

さらに、彼は彼らに言った。「行って、ごちそうを食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。

何も用意が出来なかった人には食べ物を贈りなさい。今日は、私たちにとって聖なる日である。

悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」

                       ネヘミヤ記 8章 10節   別訳です。

神と共に歩む、

これが何を意味するかご存知ですか。エノクが味わった喜びのことですか(創世記5:22)。

主イエスの足元に座るとは何を意味しているか、あなたは知っていますか

マリアが経験した喜びのことでしょうか(ルカ10:39)。

あなたの頭を主イエスの胸によりかからせるとはどういうことか理解できますか。

よく知られている、ヨハネの喜びのこと(ヨハネ13:23)でしょうか。

主との交わりとは単に主と語り合う事だけではありません。

実は私たちの悩みの時すでにこの交わりを頂き、経験しているのです。

平安を失い、連夜の孤独の中にあっても、このような交わりが与えられます。

苦しみ絶望し病の中にあっても、主の豊かな交わりは与えられ、経験できるのです。

主キリストとの交わりの一滴のしずくだけで多くの試練を軽くするのに十分です。

主が近くにおられ、私たちがその臨在を楽しみ、その輝く瞳を見るだけで、

地獄さえ天国に変わるのです。

私たちが父なる神と御子イエス・キリストとの交わりを与えられていることは、

主にとっては大きな喜びなのです。そして、主との交わりのある生活は、

私たちにとって最も幸いな歩みなのです。この愛の神に出会ってみませんか。

                        C・H スポルジョン


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