マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

神は

2015年12月25日 | キリスト教


「 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

   それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」    ヨハネ 3章 16節

 

信じ、希望し、愛する。この三つは昔からキリスト教が人間にとって最も大切なこととして教えてきたことです。

 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。 」 Ⅰコリント 13:13

心の深いところで強く信じ、広やかで肯定的な希望を抱き、心身を費やして人を愛することを忘れてしまったのでしょうか。

その結果、多くの現代人が、人としてこの世に生を受けてきたことの有り難さ、尊さを感じ取れなくなっているような気がします。

 イエス・キリストはの誕生を祝うクリスマス、この日には二千年以上にわたって、世界中の人が

「あなたはこのちじょうにせいをうけたこと、そして今もここにいることはよいことだ 」 と祝福します。

イエスは、信じること、希望すること、愛することの大切さを、命をかけて教えて下さったのです。

それはこのことを始められたのは、神です。その御子を贈られたのは神であり、神がその御子を贈ったのは、

神が私たちを愛されたからです。すべてのことの背後には神の愛が満ち満ちています。

 

「 神は私たちの一人ひとりを、あたかも私たちのただ一人だけを愛されるように愛したもう」  アウグスチヌス

 

                                                  

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失われた人

2015年12月18日 | キリスト教

 

「 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」   ルカ 19章 10節

今年もまたイエスの御降誕を記念し、感謝するときとなりました。主イエスは神と等しいお方ですが、

神の位を捨てて、人となり。この世界に来てくださいました。その目的は「失われた人」を救うためです。

「失われた人」とは私たちのこと。(失われるとは、本来あなたが居るべきところではないところにあなたがいると言うことです。) 

神に造られながら、その造り主を忘れ、自分自身を義なる王としてサタンの支配に囚われたものでした。

しかし、失われていると思っているのは、私たちの方だけで、真実は、決して神があなたを見失ってはいないのです。

私たちがどこに居ようと、神は知っておられ。あなたが、「主よ。」と呼び求めさえすれば、イエスが手を差しのべ、

神ご自身があなたを救い上げてくださるのです。

神の約束は、こうです。

      イエスは、あなたを見ておられる。       イエスは、あなたの名を知っておられる。  

      イエス、あなたを招いておられる。       イエス、あなたを必要としています。

あなたは、天涯孤独で、誰にも知られていない、孤独だと、おもっているかもしれませんが、決して一人ではありません。

あなたを探し求め、命を捨てて、神の所有としてくださいました。この絶大な恵みを感謝しましょう。

聖書から少し

「 。―― わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。… 」

                                               エゼキエル  34章 16節

「 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」  

                                                Ⅱコリント 5章 17節

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模範として

2015年12月11日 | 聖書

 「 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、

かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

                                             ピリピ 2章 6~8

神に従うこと、これが私たちの生きる道であることを、イエスはこの地上の生涯において示されました。

しかし、従順であることは、なんと難しいことでしょう。私もイエスの救いを受ける前は、

不住順を誇っているような生き方をしていました。「どうしてですか、 ? なぜ 」 とよく口にし、態度ですねて見せました。

クリスチャンになってから、イエスは、私を抑えつけ、こわし、み言葉に従えるように訓練をしてくださいました。

人々から忠告を受けたり、( 一番辛かったのは、私をよく思わない人を通して来る忠告です。) 勧められたりするとき、

イエスからと思い従順に受け取ろうと思うのですが。なかなかできません。

この不住順にしか生きることの出来ない私の身代わりに、イエスは神の罰を受けてくださいました。

不住順の罪が赦され、その罪から解放されるためにです。ただし、主イエスは、神性を捨てられて、

人間のかたちをとられました。( しかし、神でなくなったことは一度もありませんでした。)

主( 神 ) が私たちが及びもつかない犠牲を払ってくださったことがここではっきりと知ることができます。

聖書から

「 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、

また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」  マタイ 20:28

 

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神の計画

2015年12月04日 | キリスト教

「 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」
                                  ルカの福音書 2章 34~35

一般には親より先に子が死ぬと言うこと程、親不孝はない。またどれだけ、その親を苦しめ、悲しませることでしよう。然も家族思いで、心根の優しい息子がいま目前で死にゆくの見なければならないとは、

何とこの母にしたら残酷な仕打ちでしよう、しかし、神の計画は進んで行くのです、それは何か無慈悲な思いもします。でも全世界の救いの為に、このことを神は成されたのです。そして、それは私たちのためだったのです。

母は本当に、この事を理解し得たのでしようか。もしかしたら、受け入れることが出来ても、理解はできていなかったかもしれません。しかし私たちには喜びとなり、恵みとなったのです。 

もうすぐ世間で言うクリスマス。賑やかで楽しいクリスマスもいいものです。しかし、今年のクリスマスは主イエスと二人きりの静かなクリスマスはいかがでしょう。愛するお方と共に過ごされますように。

あなたのために来られた主イエスに、寄り添うことの出来る恵みを十分に堪能して、心をほっとさせましょう。

                                                感謝。かんしゃ。

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