マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

唇をどう使うか。

2020年05月29日 | キリスト教

「主よ、わたしの魂を助け出してください/偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」

                             詩編 120篇 2節

ある人に「体の中で一番尊いところはどこですか」と聞いたら、

「舌です。神を賛美することができるからです」と答えました。

「では、体で一番いやなところ、悪い部分はどこですか」と聞くとこう答えました。

「舌です。人を気づつけ、人を殺すこともできるからです」と言われました。

考えてみますと、三尺の剣より、三寸の舌の方が、人を傷つけ、人を殺します。

悪意に満ちた中傷のことばは、告げ口もありますし、

悪意はなく本当のことを言っているとしても、思いやりの知恵がないために、

ぐさっと人を傷つけて殺す言葉もあります。私たちは、人々の偽りの唇、

欺きの舌から守られたいと思いますが、まずは自分自身が偽りの唇、

欺きの舌を用いない事を願い求めるべきではないでしょうか。

 

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惜しむことなく

2020年05月22日 | キリスト教

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、

  御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

            ローマ 8章 32節

ここ で注目したいことは、「惜しみなく」ということばです。私たちは、人に対しても、神に対しても、

惜しむという気持ちがつきものです。しかし神が私たちを助ける時には、惜しむということがないのです。

神に は出し惜しみするということがありません。「惜しみなく」です。

つまり、この「惜しみなく」とは「無制 限の恵み」なのです。

 

神とともに歩む者には、いつも神が第二、第三の道を備えてくださることを知らなければならない。

一つの道がふさがれ、失敗に見えても、神は次の道を備えてくださいます。

どの道が一番良いのか、あるいはよかったのかは、時間と共に、神が示してくださいます。

大切なことは、「神はわたしを顧みてくださること」を知っておくことです。

どの道に導かれても、自ら低くし、委ねることを学んでいきたい。

 

ここも答えは、「私たちにすべてのものを恵んでくださる」であります。神は私たちのために、

ご自分のひとり子でさえ惜しまずに死に渡されました。ならば、私たちに必要なものをお与えにならないことは、

決してないのです。

 

詩篇118:6~7
「主は私の味方。私は恐れない。人は私に何ができよう・・。主は、私を助けてくださる私の 味方」

であることを大胆に宣言して、主に信頼する者となりたいものです。 

 

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裁いてはならない

2020年05月16日 | キリスト教

人は言う。「神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。神はこの地を裁かれる。」

                             詩編 58篇 12節

(こうして人々は言おう。「まことに、正しい者には報いがある。

                まことに、さばく神が、地におられる。」同)

 

これは厳粛な場面です。詩篇でこれまで読んだところに何度か出てきましたが、

黙示録にもたくさん出てきます。主が再臨されるとき天にいる人々が大歓声を上げて、

悪者が滅びるのを喜びます。神を恐れかしこみつつ、その裁きを喜びます。

 

物事を公平に正しく見極める目は必要です。しかし、この人が悪いと裁く態度は、

裁く当人にとって精神衛生上非常に悪いばかりか、時々問題を大きくしたり、

物事を混乱させたりします。イエス・キリストは、有名な山上の説教の中で「裁いてはいけません、

裁かれないためです。あなた方が裁く通りにあなた方も裁かれる」と言われました。

また、パウロも言います。人間が正しいとされるのは、決してやましいことが一つもないという自分の

正しさによるのではない。人間の正しさなど、横の人との上辺だけの比較の問題に過ぎません。

人を正しくするのは神の愛、神の赦し、神の恵みだけです。自分の弱さ、小ささ、

醜さをとことん認めて神の愛の中に飛び込むときだけで、人は「義とされる」のです。

裁くのは神だけです。神は必要な時、また最後に、裁き、報いてくださいます。

 

ローマ 12:19-21
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。

それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。

わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、

彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、

あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。

かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」 
 

 

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神はすべての者を愛しています

2020年05月08日 | 日記

「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、

         また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。

                  神はこのような人をも受け入れられたからです。」

                              ローマ 14章 3節

主イエスは「信仰は食べ物に関する規則を守ったり、安息日の過ごし方などという規則で縛ることではない」

とはっきりと言われています。食べ物に汚れたものなどない。安息日に働きさえしなければいい、

と言うものでもなく、神が望まれるのは、もっと生き生きした愛であり、義であると言われています。

人間は神の前では、誰もほとんど似たり寄ったりだということを知りながら、その小さなさに悩みます。

相手とほんのわずか違うことを、私たちは怒ったり、非難したりします。神は、どんな人も使われるし、

愛されます。愚かな人も賢い人も、勇気ある人も小心な人も、だらしない人も潔癖な人も、それぞれ、

それなりに心をもって尽くしていることを知って愛し、実に巧妙にお使いくださるのです。

 

私たちがなぜ、他の人をさばいてはいけないか。その理由が、ここに書いてあります。

神がその人を受け入れておられるからです。神が受け入れておられるのに、私たちが受け入れないならば、

私たちは、神のみこころに背いている、罪を犯していることになります。

食べる人は食べない人を侮ってはならない、とパウロは言っています。自由にふるまっている人は、

制約を受けている人を見て、侮りの思いがでてきてしまいますね。

「あの人、あんなこともできないんだってさ?ばかみたい!」なんて感じです。また、

逆に、肉は食べないという制約を受けている人は、自由にふるまっている人をさばいてしまいます。

「あの人、あんなことをやっている。なんてひどいことでしょう!」とさばいてしまうのです。

このどちらもいけない、とパウロは言っています。

 

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隠れ場

2020年05月01日 | 日記

「烈しい風と嵐を避け/急いで身を隠すことができるのに。」
            
                    詩編 55編 9節

ここには、人生の重荷が耐えがたくなった時の逃避心が、絵のように歌い上げられています。

「とにかく人の世は住みにくい。住みにくさが高じると住みやすい所へ引越ししたくなる」というのは、

夏目漱石の「草枕」の冒頭の有名な句ですが、どこに引越ししたとしても、自分が変わらない限り、

変わらないのが人生ではないでしょうか。しかし、自分が変わるなら、周りまで変わるのが人生ではないでしょうか。

あるとき友人から、「今すぐやめてしまいたいと思うとき、逃げ出したら負けだ、辞めたくも変わりたくもないとき、

いや人から惜しまれ、引き留められる時こそ辞め時だ」と言われたことがありました。

振り返ってみますと知恵のことばだと思います。今すぐ遠くへ逃げ出したいと思うときは、今すぐ、神の愛と真実、

神の遠大なご計画の中に深くとどまって、そこに自分と神とを見出す時ではないでしょうか。

イエス・キリストも「すべて疲れた人、重荷を負った人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう」

と言われましたが、「休ませる」ということばは、単なる身体の休息というよりも、たましいの休息、心の安息、

安心を意味し、究極的には神にある生存の保障を意味することばです。

 

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