マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

主をほめたたえよ

2016年12月30日 | キリスト教


「 ハレルヤ。私のたましいよ。主をほめたたえよ。」

                                  詩編 146篇 1節

「アーメン」と「ハレルヤ」という二つの言葉は全世界どこへ行っても通じる万国共通語です。

「アーメン」は「その通りです」という意味です。「ハレルヤ」は「神さま讃美します」という意味です。

私たち人間は生きるために働きます、食べます、眠ります。しかし、そんな中で、絶えず「ハレルヤ」と叫べることは、

人間にとって素晴らしい特権であり、光栄だと思うのです。神の愛、神の恵み、神のいのち、神の力、

神の救いの喜びをを知っているからこそ、「ハレルヤ」と言えるのです。そうでなければ叫べません。

「ハレルヤ」と神を賛美するとき、第一に神が喜んでくれます、神はその民が感謝してハレルヤと叫ぶとき、

満足してくれます。そして人間にとって、神を喜ばせることこそ最大の使命です。第二に自分自身も晴れやかになって、

神の恵みと、祝福に満たされます。第三に私たちの口に神への賛美があるとき、他の人まで晴れやかにするのです。

しかしなぜ神を喜ばせなければならないのでしょう。それは神の愛が私を貫き、その恵みをどうお返ししたらと、

考えるとき私には何かをお返しするものを持っていないことに気づきました、それで、ただ感謝を奉げるのみでした。

 

 

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我は咲くなり 

2016年12月23日 | キリスト教

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、

                               天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

                                                  マタイ 5章 16節

「 ひと 見るも良し ひと 見ざるも良し 我は咲くなり 」 素敵な言葉だと思いませんか。

数多くある花の中には、目立つところで咲き、人々からもてはやされる花もあれば、ひっそりと庭の片隅や野に咲く花もあります。

ひとさまが褒めてくださるときには、本当にうれしいものです。でも、目立たない存在であり、目立たない立場に置かれる時期に

あっても、「 わたしは咲いています 」 と野の花のように、くさらずしっかり自分の花を咲かせたいものです。

花本来の使命は、ひとからの評価にあるのではなくて、ひたすら咲くことにあるという美しくも強い姿にあります。

私たちも人の評価などを気にかけず、ただ神の与えられたその所で誠心誠意を持って働くときに人々に善い証しとなるのです。

すべては神をほめたたえ神に造られたこと喜びをもって栄光を現すのです。

 

Ⅰコリント 10:31

「 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」

マタイ 6:1

「 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」

 

 

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神が語るから

2016年12月16日 | キリスト教

「それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。

彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、

また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」     ヨハネの福音書 17章 8節

 

教会が神の言葉以外には、何も指示したり定めたりしないことを、忠実なキリスト者は知っています。

もしそうでない教会があるとすれば、キリストが言われるように、それはただ名前だけの教会です。

( ただの集まりで社交場の様な教会は、何の益にもならないと言うこと、もしかしたらカルトよりも悪いかな ) 

みことばは、教会が語るから、神のことばであるのではなくて、神のことばが説かれている事実が、教会を構成します。

みことばは教会によって造られたものではなくて、教会がみことばによって造られています。

教会があると言うことを知ることの出来るはっきりしたしるしは、神のことばです。

私たちが教会の説教や、御霊のあかしを聞かないとすれば、教会がどこにあるかをどうしたら知ることができるのでしょう。

 

エペソ 1:23

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 」

コロサイ 2:9

「 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」

マタイ 9:8

「  群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。」

 

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愛とゆるし 

2016年12月09日 | キリスト教


「 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」

                                     マタイの福音書  18章 22節

 

気になった本の一部を紹介します。

「 愛だけが人間の救いであり、神を生き、神に生かされる道であることは確かである。

しかし、過ち多い人間にとって、神が救いとなるためには、愛と 「 ゆるし 」 とは同意語とならなくてはならない。 

人は無言の鏡の前に立つとき、自分の姿のゆがみに気づき顔の汚れを素直に落とす気になる。

しかし、人から指されると、なぜか不愉快になる、鏡は全てを受け入れる、鏡の注意は温かく、明るい。

人の言葉は鋭く、冷たい。事実、福音の本質といえば、「 愛とゆるし 」 の二語に尽きる。

私たちが求めるべきものは、ただこの事だけであり、この事によってのみ、神を生き、キリストを知りうる 」

                                         奥村一郎 神父 「 断想」 より

Ⅰコリント 13:12

「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。

わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」

 

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共にいた下さる

2016年12月02日 | キリスト教

「…… 。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。

  あなたがわたしと共にいてくださる。…  」

                                       詩編 23篇 3~4節

 

近代生活は、多くの物に囲まれて一見豊かに見えますが。決してそうではありません。科学・医学の発達で長命になっていますが、

何時か必ず別れが来ます。( このことだけは全ての人たちに公平にやってきます。) すべてを残して裸で旅立つ日が来ます。

何一つ、そうです何一つです。権力も、身分も勿論しこたまため込ん財産も残していくのです。

そのとき、神が共にいてく下さり、神に従うことを知っておればひとりで旅立つ寂しさはありません。そこに平安が、真の平安が

あります。また神の国が待っているという事実を思い歓喜にあふれているのです。

神に背を向け、死という苦痛に捕らわれる私たちは、悔い改める日々の中に得るものがあります。それは、神と共に如何なることも

歩み通す喜びです。神に目を向け、神と共に歩みましょう。それを神は願っておられるのです。

 

聖書から

詩編 27:4~5

「 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えることを。 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ/幕屋の奥深くに隠してくださる。岩の上に立たせ 」

詩編 27:13 ~14

「 わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを。主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」

 

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