マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

拒否することもある

2015年11月27日 | キリスト教


「 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」

                                                ルカ 18章 1節

ここで継続された祈りの大切さを教えて下さっています。ただ、ここで押さえたいことは、執拗に熱心に頑固なほどに祈れば

何でも叶えられると想ってよいという理由にはなりません。父親は時には子供の要求を拒絶することがあります。

なぜなら、子どもの求めることは害になることが往々にあるからです。また祈りというものは、三位一体の神と私たちとの生きた

交わりなのです。

イエスは、私たちがどんなときにも絶えず祈るように、たとえを用いて話しました。

神を畏れず、人を何とも思わない裁判官 ( ユダヤ人の裁判官ではない ) のところに、非力な貧しいやもめ

が助けを求めてやってきました。あまりにしつこく訴えたので、煩わしくなって、その訴えを聞き入れたというのです。

「  まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、

 いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」   ルカ  18:7  とイエスは言っておられます。

私たちはどんな問題 ( ことの大小はなく ) でも神のところへ携えていき、祈り続けなければならないのです。

私たちは、絶えず祈り続けるのですが、祈りが応えられる時と方法、その結果については神にお任せしなくてはなれないのです。

それは神が一番良いときに、最善の方法で答え ( 応えて ) てくださると信じて待つと言うことが私たちに委ねられています。

祈りを通して自分の問題を理解し整理し、神にその問題の中に介入していただくのです。

神から。

「あなたの涙と祈りを知っている。失望しないで、祈り続けなさい。」

 

 

 

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戦いによって

2015年11月20日 | 聖書


「 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。

                       神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」

                                             Ⅰペテロ 5章 6節

神は力強いお方です。世界をつくられたお方です。( ただ一度だけ神は弱くなりました。それは十字架による贖いの時 )

私たちクリスチャンは、この神の御手の下に自分を低くすることを学ばなければなりません。

( それは苦難、艱難、病を通して神の御業をなお待ち続けるという、また、私たち自身としては、髪の毛一本さえ白くも黒くも出来な

と言うことを知らねばなりません。 ) 

神が歴史を支配し、私たちの運命を動かされる方だからです。この神と共に歩むことです。

わたしたちは自分の生活設計を立て計画します。しかし、その計画を絶対化してはならないのです。

むしろ神が私に対してどのような計画をしておられ、行おうとしておられるのかを知ろうとする姿勢が必要です。

神の計画のみが固く立つとあるからです。自分の計画、事業、学び、仕事の一切を問題に不安を持ち

思い煩うのは私たち人間の本性です。だからこそ、それらの一切を神に委ねなさいとここで教えています。

それはどのように培われて行くのでしょうか。それは、信仰の戦いを続けていく過程においてのみ可能となります。

聖書から少し

「「神、主よ。あなたの偉大さと、あなたの力強い御手とを、あなたはこのしもべに示し始められました。

あなたのわざ、あなたの力あるわざのようなことのできる神が、天、あるいは地にあるでしょうか。」  申命記  3:24

「 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、 」          ルカ    1:51

 

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カロス

2015年11月13日 | 聖書

 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

                                ヨハネの福音書  10章 11節

 まず 「 良い」 について、ギリシャ語では、この良いと言うことばは二つあります。一つは、「 アガソス 」と 「 カロス 」

このアガソスと言うことばは、単に道徳的に優れていることを言います。

カロスと言うことばは、ただ物とか人とかが良いというのではなくて、良いと言うことの中に、

魅力的で人を引き付ける要素があるというのです。イエスが良い羊飼いであると言うとき、その言葉はカロスです。

イエスの中には能力とか誠実さ以上の何かがある。そこには一種の優しさもあります。

ここで主イエスが言いたいことは、報酬目当てに働くものは、金以外のことは何も考えないという点でした。

しかし愛のために働く人は、何よりもまず、自分が仕えようとしている人々のことを考える。主イエスは良い羊飼いでした。

主イエスはその羊 ( あなたまたは私 ) を深く愛し、その安全のために危険を犯し、遂にはその命を与えてくださったのです。

さて、私たちには人生の導き手が必要です。何故なら私たちは羊のように迷ったり、つまずいたりするからです。

そのとき主イエスが私たちの導き手となり、わたしたちのいのちのためにご自分の命を捨ててくださいました。

私たちは、その生涯の中で一度ならずだれにも話せない問題を持って悩むことがあります。そうしたとき、

イエスの名によって全能の神に祈り、答えをいただくことができます。救い主イエスは私たちを受け入れ、

罪を赦し、新しい霊的命を与え、生きるためのエネルギーを与えてくださいます。

 

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神を、神に。

2015年11月06日 | 聖書

私の叫びに耳を留めてください。私はひどく、おとしめられていますから。

         どうか、私を迫害する者から救い出してください。彼らは私よりも強いのです。 」  

                                               詩編 142 編 6節

人にひどくばかにされた、見下された、無視されたと感じたことはありませんか。本当に嫌なものですね。

そのような 「 被害者意識 」は悲しくて、自分ではなく、人を裁きたくなるものですが、それは

私たち自身のひがみである場合が多いものです。他人は、自分のことで精いっぱいで、

そんなに私たちのことに関心がないのです。それなのに、ひがみ根性で、ひどくおとしいれられたと感じて、

その人を恨み怒り、復讐心に燃えるような攻撃的態度を取ったり、へたばってしまうこともありますが。

ひがんだり、怒ったり、ベッシャンコになったりした方が負けです。そうは言っても、その人を裁きたくなるものです。

裁くのは至極簡単ですが、主イエスが言うように人を愛することはとことん難しいものです。

ではどうしましょうか。

第一にどんな時、どんなところでも神を認めること、第二に、神を畏れて ( 恐れて ) 悪から離れること、

第三に、こころを尽くして神により頼むことです。そのとき、神はあなたの道をまっすぐにし、

あなたの首を高く上げてくださいます。

聖書から少し。

「私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。 」 エレミヤ  17:17

「私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。 」  詩編     91:2

「それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。 」   詩編      91:9

「彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。 」 詩編  91:14

 

 

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