マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

荒野

2018年08月31日 | キリスト教

「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」

                           マタイ 3章 3節


洗礼者ヨハネは、「荒れ野で叫ぶ者の声」として現れました。彼は神殿ではなく、学校でもなく、

荒れ野で宣べ伝えました.町の大通りではなく、人通りのない荒れ野で叫びました。

荒れ野とは、イスラエルが40年間彷徨ったところであり、イエスが誘惑にあわれたところです.

荒れ野はまた、人生の荒野、人々が愛を失い、冷たくなる場所でもあります。

この荒れ野を、神の恵みの場所とするためには、悔い改めが必要です。悔い改めとは、神を中心にして生き始めることです。

すべてを神中心にやり直すことです。どんなに信仰深そうに見えることでも、真に神が中心になっていなければ、

それは形だけのもの、表面的なものにすぎません。


また、荒野とは神に出会い訓練を受ける場所でもあります。ただ一人だけになり、自分を見つめなおして、

自分を知り、その自分のすべてを神に告白し、弱さをさらけ出して、この神に信頼し委ねるのならば、

神が共におられるのを、知ることができます。

 

申命記  8:2

「あなたの神、【主】が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。

それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。」


申命記  1:31 

「また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、

 あなたの神、【主】が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。」

 

 

 

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互いに愛し合いなさい。

2018年08月24日 | キリスト教

「 …… 。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 

       ヨハネ 13章 34節 B

 

イエスは愛を語ったのではなく、愛をお見せになりました。ご自分が模範となられて、それを実践されていました。

したがって、弟子たちは、イエスが去って行っても、このイエスにならって前に進んで行くことができるわけです。

どのようにして生きれば良いか分からないのではなく、模範にしたがって生きていくことができます。

それは、イエスにならって人を愛して生きることです。

イエスは新しい愛の掟を教えられた。イエスが教える以前の愛は、人情の愛、奪う愛、であった。

イエスは父なる神から啓示された無償の愛(与える愛)を教えられた。
 
マザーテレサが1984年に日本に来た時、広島の原爆資料館を訪れ、そこに色紙を残した。
 
次のような言葉が書かれていた。今も展示されている。
 
「神が私たち一人一人を愛されたように、私たちも互いに愛し合いましょう、
 
そうすれば、広島に多大の苦痛をもたらした恐るべき罪悪が、二度と起こらないでしょう」
 
マザーは「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」を引用しながら、
 
私たちは相手もまた神から愛されている存在であることを知らないから、憎み合い、殺し合うと語る。
 
神は私の敵をも、イスカリオテのユダさえも愛しておられる。そのことを知る時、
 
私たちは人を愛することが出来るし、戦争を止めることが出来る、マザーはそのように訴えている。
 
キリストの愛は乾燥した愛でもありません。人が愛や助けを必要としているとき、

指一本貸さない人、他人のためにはお金も時間も犠牲も払いたくない、

ただそれらしいジェスチャーをして泳いでいく人であってはならないと思います。
 
 
 
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種をまくこと、

2018年08月17日 | キリスト教

 「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。」

                        詩編126篇 5節

いくら種をまいても、生えないこともあります。イエス・キリストのたとえ話にあるように、

道端に落ちて鳥に食べられてしまう種もあれば、石ころだらけの石地にまかれて、

すぐ芽を出しても、間もなく枯れてしまったり、雑草の生い茂るところに落ちて実を結ばない種もあるでしょう。

労多くして、実りの少ない、これが人生の現実かもしれません。

しかし、「蒔かぬ種は生えぬ」これこそ原則中の原則ではないでしょうか。ですから、涙と共に、

いのちの種、愛の種、親切の種、祈りの種をまき続ける人だけが、やがて喜びながら刈り取ることができるのです。

蒔かない限り、生えないのです。私たちは涙をもって種をまき、しっかりと希望をもって忍耐して待たねばなりません。

愛の労苦の後には必ず報いがあります。

ヘブル書6章10節、

「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、

また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」私たちが、固い土地に御言葉の種を蒔いたら、いつか必ず刈り取る時が来ます。


マルコ4:3-8

「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。

ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、

根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。

また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。 

 

箴言  11:1

「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである。」

箴言 11:6

「朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、

あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである」

 

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終わりから見る

2018年08月10日 | キリスト教

「わたしは永遠に女王だ、とお前は言い/何事も心に留めず、終わりの事を思わなかった。」

                   イザヤ 47章 7節

 

私たちは終わりのことを考えないように生きていると思います。ある人は大切な家族の死を通して、

自分の人生を問い直して、大企業のエリートのポストを捨てて、神学校に行き、牧師になられました。

自分の先が見えた時、人はより意味のある人生を生きたいと願うのではないでしょうか。

死ぬということがあるから、生きている今に価値が感じられる、老いるということがあるから、

今の日々が大切になる、別れる時が来るから、一緒にいる今を大切にしたい。

すべてに終わりがあるから、すべてがいとおしくなってくるのです。

終わりから今を見ると、すごく気にしていたことも、それほど重要なことではないと気づかされます。

毎年、毎日に終わりが来ることを思って、いかに生きるべきかを考える時を大切にしたい。

歴史は覇者がその栄光を持続することは出来ないことを教える。「奢れる者は久しからず」、
 
そこに神の意思を認めるかどうかが信仰だ。
 
ルカの描く「愚かな金持ち」は、自分が死ぬことを認識しないゆえに「愚かだ」と言われる。
 
「(愚かな金持ちは言った)『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。
 
ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。しかし神は『愚かな者よ、今夜、

お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」。 
 
                             ルカ 12:19-21




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柔和とは

2018年08月03日 | キリスト教

「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。

そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」

                     マタイ 11章 29節

 

「わたしのくびき」とは、イエスがこしらえたくびきであり、イエスがあなたのために立てられた計画のことを

さしています。したがって、「わたしのくびきを負いなさい。」と言うのは、主イエスの支配にゆだねなさい、

という事です。
 
私たちは、聖書を読んで、知識を蓄えればイ主エスのことを知ることができると勘違いをしてしまいますが、
 
主イエスに従わなければこの方を知ることはできません。使徒ヨハネも、1ヨハネ5:3

「神を愛する事は、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」と言いました。

ですから、主イエスに自分を奉げることは、実はとても楽なことなのです。
 

そして、主イエスのくびきを負います。くびきとは、自分のしたいことではなく、
 
イエス様のしたいことに自分を合わせることです。これは重荷とはならないと主イエスは言われます。
 
サタンの用いる最大の偽りは。主イエスに従うことが、重いことだと勝手に自分で思わせてしまうのですが、
 
サタンがそれを言い含めます。それを拒んでください、イ主エスの言葉の言われるように、
 
主イエスのくびきは軽いと宣言してください。主イエスはさまざまの重荷にあえぐ私たちを招き、十字架の死によって、

私たちの重荷を引き受け、重荷から解放してくださっていることを心にとめ、歩みたいものです。

 

 

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