マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

心が渇く

2019年06月28日 | キリスト教

「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、
  「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」
  
                        ヨハネ 19章 28節

この聖句は、イエスが十字架上で語られた七つのことばの中の第五番目のことばです。

私たちの贖罪を成し遂げられた主イエス・キリストにとっては、私たちの救いこそが主イエスの心の渇きです。

そして、この主イエス・キリストの贖罪を信じて救われた魂の起こることこそ、主イエスの切なる願いです。

主は魂の救いのために命をかけてくださいました。主イエスは今も魂を求めておられるのです。「わたしは渇く」と今日もなお私たちに語りかけられ、あなた個人に対していま語りかけてくださっておられるのです。


詩篇  22:16
「口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。」

詩篇 69:30
「わたしは卑しめられ、苦痛の中にあります。神よ、わたしを高く上げ、救ってください。」

ヘブル 9:27
「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、」


また、十字架は『死から生への』出来事である。死ななければ、新しい命は無い。

ローマ6:4
「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。

れは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、

私たちも新しい命に生きるためなのです」。この主イエスを信じ受け入れたものにとっては、

死は一つの扉であって、その先には神の国主イエスが待っておられる所へといけるのです。

 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父の思い

2019年06月21日 | キリスト教
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。
    しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
                             ルカ 22章 42節

これは、自分の最後が刻々と迫っていることを意識したイエスが、非常に深い悩みの中で、

自分の本心を父である神に訴えた祈りとして、わたしたちに伝えられています。

イエスは、苦しみや悲しみ、そして死を全く恐れない冷徹な印象を与える方ではありませんでした。

人間らしい自然な、感情の豊かな方でした。死ぬのは嫌だ。できれば死から逃れたいと思って、

このように願われたのではないでしょうか。

「この杯をわたしから取りのけてください」と主ははっきりと祈りました。しかし、そう祈りながらも、

神の望みは、自分の願っていることとは違って、死を受け入れることであろうと主は気づいておられました。

神の望みを受け入れるのが苦しいとき、この場面を思い起こして、イエスの後に従って苦しみの中にも神の

教えに従って歩めるように祈っていきましょう。


イエスご自身も、戦っておられました。それは、ご自分の意思と御父の意思との間にある葛藤です。

イエスは、できれば杯を取り除けてほしかったのです。この杯は、御父との別れを示しています。

罪を負うことによって、聖なる神から引き離されるからです。神の御怒りをご自分の身に受けら れます。

そこで御心ならば、取り除けてくださいと祈っています。わたしが死ぬ以外で人々が救われるのなら、

取りのけてください。もし信心深くなって救われるのなら、良い行ないを積むことによって救われるのなら、

取りのけてください、ということです。けれども、やはりイエスが死ぬことは父のみこころでした。つまり、

どんなに信心深くなっても、どんなに人間が努力しても、決して救われないということです。

人はそれを認めたくありません。ペテロのように、「いや、自分でやってみる。」と思いたいのです。

けれども、キリストの十字架は、人は何も善 いところがない堕落した罪人であり、

自分では救いようのない存在であることを教えています。


神の子さえ、「理解できないことを受入れること」が難しかったことは、私たちを励ます。

しかしイエスは最後に勝たれたのです。「私の願いではなく、御心のままに行ってください」とは、私たちの祈りの確信です。

ヘブル2:18
「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イエスの黙秘権。

2019年06月14日 | キリスト教
「祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。」
             
                           マタイ 27章 12節

イエスが裁判で訴えられた時、ローマ総督ポンテオ・ピラトが、イエスを非常に不思議に思ったというところです。

大祭司や長老たちからイエスはいろいろと訴えがなされましたが。それに対して何も答えにはならなかったのでした。

ピラトは、イエスに彼らがあなたに対して、こんなにさまざまな不利な証言をしているのが聞こえないのかと言います。

しかし、イエスはどの訴えに対しても、一言もお答えになりませんでした。

それで総督は非常に不思議に思ったと聖書に書いてあります。

イエスの黙秘権は、権威に対する犯行でもなく、裁判官に対しての不信でもなく、

人々への恨みの情による黙秘でもなかったからです。

ピラトが不思議に思ったのは。キリストの穏やかさだったに違いありません。

イエスのこの穏やかさは、父なる神に自分の一切を託して生きる謙虚さではないでしょうか。


イエスは、ユダヤ人の王であること以外に、一言も話されませんでした。イザヤの預言が成就するためです。

イザヤ53: 7

「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、

毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」 

このようにして、神のご計画が着々と進んでいます。


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関わり合うこと。

2019年06月07日 | キリスト教
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、

          遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。」
                    
                        ヨハネ 13章 16節

十字架につけられる前の晩、弟子たちと夕食を共にしたとき、主は、上着を脱ぎ、恐らくは上半身裸になられ、

腰に巻くと長く垂れる手ぬぐいを身につけました、まさに奴隷の姿になって弟子たちの足を洗い始めました。

弟子たちは驚き、ペテロは、「足など、決して洗わないでください」といったと記されています。

主は、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりもないことになる」と答えられました。

汚い足は、私たちの罪を意味しています。主は、私たちの罪を身代わりになって神のさばきを受けてくださいました。

私たちがなにか立派な人間だと思っているのなら、主とは何の関係もない、醜いボロボロの自分で主のもとへ行くとき、

はじめて主との関係ができるのです。主は、私たちに仕えてくださるために、命をも献げてくださったのです。

さて、このペテロとイエスの会話は、神と私たちとの関係を知るのにとても大切な真理を伝えています。

第一に、神の一方的な愛と恵みを私たちが受け入れなければならない、ということです。

ペテロは、イエスに自分の汚い足を洗ってもらうなんて、あまりにも畏れ多いことだと思いました。

けれども、このあまりにも畏れ多いことを自分がしっかり受け止めることによって、

神がいかに自分を愛してくださっているのかを知ることができます。

天地を創造しすべての権威を持っている方が、私の汚れを洗ってくださるのかということに気づいたとき、

私たちの心は一変するのです。ペテロは、自分で足を洗わなければいけないと感じていたことでしょう。

けれども、もしそこでお返しをしてしまったら、神の一方的な愛は伝わらなくなり、その人の心は変わりません。

自分の行ないを付け加えることによって、すべて台無しになってしまいます。

そこでイエスは、「わたしが行なわなければ、あなたとは何の関係もない。」と言われたのです。

私たちも同じです。クリスチャンから愛を受けるときに、それを全身でしっかりと受け止めなければいけません。

そして、神はこのようにすばらしい方なのかと思って、神への憧憬と感謝に満たされる必要があります。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする