マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

どちらも幸いです

2024年03月29日 | キリスト教

 

ややにちかし あまつわがや こころにえがきて われはまてり  

       そなえられし わがすまいは かがやける まちのなかにぞある 

                                                                        
                                                                           聖歌 364 より
                                                                                                                
ピリピ  1:23
「この二つのことの間で、板挟みの状態です。

  一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。」


( 同 )
私は、その二つのもの (死と生) の間に板ばさみとなっています。

私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。   
 

へブル 11:16
「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。

ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」  

 


 もしよろしければ、聖書をお開きになって、この聖句の文脈をお確かめ下さい。

        聖書には死後のことも、今の命をどのように生きるかも書かれています。

 

     「 聖書は、決して死を待ち望むようには命じてはいません。天国を待ち望むべきであるとごく頻繁に命じています。」  
 
                                           マシュー・ヘンリー                                                                      
                                                                                          
最後に

これがクリスチャンとしての生きざまです。

クリスチャンは、単に後の世のことを思って、この世で苦しみ悩んでいる存在ではありません。 

なぜなら、主にあって豊かな実が結ばれていくからです。

けれども、同時に、この世には何の未練もありません。

なぜなら、天に用意されているものが、どれだけすぐれているかを知っているからです。

ここは苦しいから、はやく天国に行きたいでもないし、ここは楽しいから死にたくない、

でもないのです。どちらも自分にとっては益なのです。 

 

 

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主の御名

2024年03月23日 | キリスト教

・・・ 、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。

                                                  Ⅰサムエル 17章 45節B


  

主は私の ( 牧者 ) であって、主は私と ( 共 ) に歩んでくださり、私が病み悩むときも ( 癒 ) してくださる神です。また、私が貧しく乏しいときにはあらゆる恵み持って (  備 )  えてくださるから。私は声を大きく叫んで言います。主は私の頭の上にある (  旗 ) ですと宣言するとき、(  主の )  (  平安 )  が私のうちに満たされるのです。何故なら、わたしを守ってくださるお方は。(  万軍 )  の主であり、(   全能 ) の神だからです。  

 

 牧者 ( ローイ )     主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。     詩編 23:1     口語訳
 
 共に ( シヤンマー )  その日から、「主がそこにおられる」と呼ばれる。          エゼキエル  48:35
 
 癒す ( ラファ― )    わたしはあなたをいやす主である。                出エジプト  15:26
 
 備え ( イルエ )     「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。        創世記    22:14
 
 旗  ( ニシ )       モーセは祭壇を築いて、それを「主はわが旗」と名付けて、    出エジプト  17:15
 
 平安 ( シャローム )   それを「主は平安」と名づけた。                 士師記  6:24  口語訳

 万軍 ( ツェバォット )  万軍の主の名によってお前に立ち向かう。             Ⅰサムエル  17:45
 
 全能 ( シャダイ )    「わたしは全能の神である。 ・・・・ 。            創世記    17:1

 

 ことばの前に、「 エル 」 または 「 ヤーウエ 」 または 「 エホバ 」 とつけます。例えば ( シャダイ ) の場合 エル・シャダイ となります。

              そして神は主キリスト・イエスを私に贈られた。ただただ感謝に尽きない。

 

 

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頼れるお方は

2024年03月15日 | キリスト教

主はこう言われる、『おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、

                       その心が主を離れている人は、のろわれる』。」

                       エレミヤ 17章 5節

人に頼ることも、偶像礼拝に関わります。神以外に頼っているものがあれば、それが偶像ですから、人に依存することも偶像です。

もちろん、私たちは互いに必要です。けれども、神から与えられた交わりであり、その交わりそのものが第一となってはいけないのです。

あくまでも神の礼拝が第一であり、それから互いに交わりであり、人との関係であります。

 

「のろわれる」とは怖い話です。なんだか神から脅されているように聞こえますが、そうではありません。

神の「のろい」「刑罰」はあなたの選択と決断によって、自らが引き寄せているものです。

雨降りのなかに傘も差さずに出て行けば必ず濡れます。しかし、屋根の下に入れば濡れません。

同様に、神に頼れば幸いですが、人や肉なる者を頼ると不幸です。あなたはどちらを選びますか。 

  

 

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平和の基本

2024年03月02日 | キリスト教

「 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、

     互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」

                                                                   ピリピ 2章3節~4節


自分はできていない、駄目なのだというのはへりくだりではありません。むしろ高慢ですらあります。

自己憐憫というのは、未だ自分のことばかりを考えているのであり、自己中心的です。

自分を神と隣人のために忘れていること、それがへりくだりの結ぶ実であります。
                   
一致を保つことができるようになるのは、一重に「「自己中心」とは反対の「へりくだり」です。

自分のことではなく、キリストのことを思うことです。


英語では

JOY というのは、初めに J (Jesus)、次に O (Others)、それから Y (you)です。

初めにイエスを、次に他の人たち、それからあなたとなっていれば、喜びに満たされることができるよ、ということです。 

 

決して J (自分)  O (俺)  Y (私) ではありません。そこを間違わずに 

でも 気を付けなければいつの間にかそうなってしまいがちですね。


アンドリュー・マーレーが言った言葉、
「へりくだりとは、自分を卑下することではなく、自分を忘れることである。」


ローマ 12:10

「 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」

ルカ 6:13

「 自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」

 

 

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