「憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。」
マタイ 5章 7節
あわれむとは、人を赦し、さばかない態度です。
イエスは後で、「さばいてはいけません。さばかれないためです。(7:1)」と言われましたが、
私たちは、人の心の中に起こっていること、つまり動機をさばくことはできません。
むしろ私たちは、神がわたし達を豊かに赦されたように、私たちも他人を赦すべきなのです。
約束は、「あわれみを受ける」ことです。ですから、他人を赦すことは、直接私たちの益につながります。
神の義を求める者は、憐れみ深くなります。自分の義ではなく、神の義を求めるからです。
イエスは後で、「裁いてはいけない」ことを教えられます。
マタイ7:1-2
「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、
あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」
そこで、裁きというのが神の領域にあることを知るようになります。
命を与えるのも取るのも神のみが行ないますが、もしそれを人が行なったら殺人です。
それは神の領域に侵害したことに他なりません。同じように、裁きや復讐も神に属しています。
これに手を触れることは神の領域に同じように侵害しているのです。
それで、私たちが憐れむのは神への健全な恐れによって、憐れみます。
「その人はあわれみを受けるからです。」とあります。人に憐れみを示すことが、
自分自身が神の憐れみを受けることにつながっていることを知ります。
「私は間違いを犯すなら、憐れみのほうで過ちを犯したい。
人を誤って裁くのではなく、人を誤って赦すことを選びたい。」
チャック・スミス
クレジットが溢れ、姦夫姦婦もしれ渡ってる時代ですが、
姦夫姦婦も憐れみますか?