マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

託して生きるという

2016年09月30日 | キリスト教

しかし、祭司長、長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。」

                                             マタイ 27章 12節

キリスト・イエスが裁判で訴えられたとき、ローマ総督ポンテオ・ピラトが、キリストを非常に不思議に思ったいう所です。

大祭司や長老たちから主イエス・キリストはいろいろ訴えがなされましたが、それに対して、何もお答えにはなりませんでした。

ピラトは、イエス・キリストに彼らがあなたに対して、こんなにさまざまな不利な証言をしているのが聞こえないのかと言います。

しかし、イエス・キリストはどの訴えにたいしても、一言もお答えにはなりませんでした。

それで総督ピラトは非常に不思議に思ったと聖書にあります。

 

キリストの黙秘権は、権威に対する反抗でもなく、裁判官への不信でもなく、人々への恨みの情による黙秘でもなかったからです。

ピラトが不思議に思ったのは、イエス・キリストの穏やかさだったに違いありません。イエス・キリストのこの穏やかさは、

父なる神に自分の一切を託して生きるという謙虚さではないでしょうか。私たちもこの穏やかさをもって一生を過ごしたいものです。

 

ここで少し伝説として言われているこぼれ話を一つ。( ピラトの妻について。)

ピラトの妻は、ユダヤ教に回宗して、その名をクローディア・プロキュラと呼ばれ、後にクリスチャンになったと言われています。

今に至るまで、コプト教会は、ピラトとその妻を聖人に列しています。

 

聖書からすこし、

イザヤ 53:7

「 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、

                      毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」

Ⅰ ヨハネ 2:6

「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」

 

 

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2016年09月23日 | キリスト教

まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、

                          遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。」

                                                 ヨハネ 13章 16節

十字架につけられる前の晩、弟子たちと夕食を共にされたとき、主イエスは、上着を脱ぎ、多分上半身裸になられ、

腰に巻くと長くたれる手拭いを身につけ、まつに奴隷の姿となって弟子の足を洗い始めました。

弟子たちは驚き、ペテロは 「 足など、決して洗わないでください 」 と言ったと記されています。主イエスは、

「 もし、私があなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりもないことになる 」 と答えられました。

ペテロは 「 何故 」 という思いが強く出たのでしょう、私たちも知っているつもりで行動し、自分の思いを前に出しますが、

しかし、主のみ旨が理解できずとも、その御心を行うときには必ず祝福があるのです。何故なら、主イエスの働きは

愛に満ちているからです。

汚い足は、私たちの罪を意味しています。主イエスは私たちの罪の身代わりに負って神の裁きを受けてくださったのです。

自分が何か立派な人間だと思っているのなら、この主イエスとは何のかかわりもないのです。

醜いボロボロの自分のそのままで主イエスのもとに行くとき、始めて主イエスとの関係ができるというのです。

罪の悔い改めとは、まず私たちが主のみ前にそのまま告白することです。そこから主のみわざが゜始まるのです。

主イエスは、私たちに仕えて下さるために、命さえ捧げてくださいました。

このお方は神であられるのにその権威を使われず、私たちのために遜られました。

ここに父なる神の愛が私たちに表されたのです。

 

 

 

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愛の眼差し

2016年09月16日 | キリスト教

主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」

と言われた主のおことばを思い出した。 」      ルカの福音書 22章 61節

 

イエス・キリストが徹夜の裁判を受けられていたときに、弟子の筆頭とも言われているペテロはどんな人だったのでしょう。

ペテロが主イエスなんか知らないと三度もイエスを否認した場面です。

人は自分の身に危険を感じますと、やはり自分を守るためにどんな嘘も、どんな拒絶も、どんな裏切りもすることをまざまざと

見せつけられます。

しかし、ペテロはそのことを知っておられた主イエスの目と視線があったときほんとうに激しく泣きました。

愛する弟子たちにも裏切られながら、愛の眼差しを持ってペテロを眺められた主イエス様、人間関係の全ての裏切りを

身に受けて、十字架に向かわれた主イエスを覚え、主イエスを裏切ることのない生き方をしていきたいと思います。

主イエスの愛の前で確信したことは、自分は罪人にしか過ぎないと言うことです。しかし、こんな私のためにも、主イエスは

愛の眼差しで見ていてくださっているのを知りただ感謝するばかりです。

聖書から

出エジプト 34:6

「 主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、」

「Ⅱコリント 7:9 ~10 

「今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころ

に添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔

い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」

 

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執り成し

2016年09月09日 | キリスト教

苦難の日に主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。」

                                             詩編 20編 1節

これは、民が王のために祈る執り成しの祈りです。聖書の中にも 「王と全ての地位の高い人たちのためにに願い、

祈り、執り成し、感謝がささげられるようにしなさい。」 と王のために執り成しの祈りをささげることが勧められています。

王もまた個人的に神を畏れ、神の偉大な力のもとに身を低くして祈るべきです。

 

偉大な、責任と権威のある人ほど、祈る人であってほしいのです。祈りとは自分を無力だと確信し、神を信頼して、

真実の祈りを神のみ前には注ぐことが神の喜ばれる祈りです。

そして、祈りを通して、自分の願いを知っていただくのですが、その答えは自分が期待していたこととは違うこともあります。

が。それでも自分を殺して、神のみ旨に従うというのが祈るときの大事な姿勢です。

王の王、主の主、イエス・キリストは、日の出前に祈り、夜更けに祈り、ゲッセマネの園で祈り、十字架の上で祈りました。

神はその祈りを聴き届け、私たちに救いの恵みが下ったのです。ですから、王のための祈りは、

私たちの王の心の底からの祈り、苦難の日の祈りに、父なる神よ答えてあげい下さいという祈りだったのです。

聖書から

「Ⅰテモテ  2:1 ~2

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、

祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、

平安で静かな一生を過ごすためです。」

ヘブル 7:25

「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、

彼らのために、とりなしをしておられるからです。」

 

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信仰とは謙遜になること

2016年09月02日 | キリスト教


「 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」

                                       ヨハネ 13章 5節

 

主イエスは、十字架につけられる前の夜に、弟子たちと夕食を一緒にしました。その席で突然立ち上がり、

上着を脱ぎ手拭いを腰にまとわれ、弟子たちの足を洗い始めたのでした。( もうすぐ、ユダやペテロという弟子たちからも

裏切られることを知っていながら。)  そして、それが終わると弟子たちに言われました。

「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。 

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」 同  13:14 ~15 

主イエスは、しつこいほどこれを行うように勧めています。洗足は、相手を自分より高くし、遜って仕えていく、

言いなりになるのではなく、愛を行うようにと言うことを意味しています。信仰とは謙遜になることであり、

自らの思い上がりを告白することです。

 

主イエスは、きっと裏切るであろう私たちを愛し、私たちの罪の身代わりに負い十字架で死なれたのです。

最後の最後の時、洗足を通して。仕える者の姿を刻み付け、弟子であるならばこのようにしなければならないと教えられました。

 

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