マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

私にしたことです。

2021年04月30日 | キリスト教

すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、

これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

                                 マタイ 25章 40節

 

王である者が実は最も小さな者といっしょになってくださっています。これは驚くべきことです。

イエスは、天と地にあるすべての権威を持っておられる方です。

そのイエスが、人々からさげすまれるような困窮している者たちといっしょになってくださいます。

私たちは、生活の中でキリストがどのように働かれているか分からなくなるときがありますが、

実は、日常生活の中でキリストに出会っているのです。

そして、イエスは、ここに出てくる人々を「わたしの兄弟たち」と言われています。とても感謝なことです。

 

初めてこの日本を訪れたマザー・テレサの言葉を今でもはっきりと覚えています。

「この日本は物質的に本当に豊かな国です。しかし、町を歩いて気付いたのは、貧しい人に無関心です。

愛の反対は憎しみではありません。無関心です。憎む対象すらならない無関心なのです …… 」

マザーの主な奉仕の場であるカルカッタは世界中からたくさんの見学者、ボランティアたちが訪れ、

多くの人が「マザー、私たちは何をしたらよいでしょうか」と質問をしていたそうです。

「少し手伝ってください」という返事を期待しての質問だったのかもしれませんが、

マザーは決まったように答えていたそうです。

「すぐにお国へ帰りなさい。そしてあなたの最も近いところから人を大切にすることを始めてください」と。

 

あなたの隣にはどなたがおられますか。親、夫、妻、子供たちだけではなく、あなたに敵対する人たちも含めて、

あなたの隣人です。見て見ずではなく、可能であれば、あなたから手を差し出してみては。

それは一番主が喜ばれることだと確信します。

 

 

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選ばれた者。

2021年04月23日 | キリスト教

「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。

夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。」

                          

                           ルカ 6章 12~13節

 

ルカのいう「使徒」はパウロのいう「使徒」とは少し意味合いが異なります。

パウロの言う「使徒」は個別的意味合いが強いのですが、

ルカの言う「使徒」とはあくまでも12弟子による共同体的・教会的「使徒」を意味しています。

 

私たちはとかく、「自分」がいて、そして「聖書」があって、そしてそこに書かれてある教えを

自分に当てはめようとする自己修養を目的とします。そして、ここに書いてあることができていないといって

自分を責めたり、また自分が何か活動をしているから自分は立派なクリスチャンだと思いこみます。

そういった自己修練でも、自己実現の場でもないのです。

この新しい権威、十二使徒による神の統治と教会による御国の拡大の中に自分が入っているかどうかが、

大事なのです。自分が修練するのではなく、自分をその権威と御霊の流れの中に置いているかどうか、なのです。

 

イエスが十二人の弟子たちを選ばれたのはなぜでしょう。

それは、イエス自身が行くことのできない場合代わりに遣わしたり、先に遣わしていろいろと準備を

してもらうためです。そう、イエスの代わりに何かをやってもらうためです。

でも、私たちには競争心や嫉妬心、狭い心があって自分のやり方が一番と思ってしまいがちです。

一番ふさわしいのは主イエスなのですが、その主イエスが十二人の弟子を持ち、

さらに七十二人の弟子たちがいたとも言われています、大切な協力という精神をこの弟子たちと併せて考えたいと思います。

 

エペソ 2:20
「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」

 

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裁くな。

2021年04月16日 | キリスト教

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」

                          マタイ 7章 1節

 

人のあら探しをしたり、必要以上に批判的になる事です。この場合、人の言っていること、行っていることの動機までを裁きます。

けれども、はっきりと目に見えるかたちで罪を犯しているのとは違って、人が心の中で犯している罪を私たちは裁くことができません。

人の心の態度や隠れて行っていることは、神のみが知っておられることであり、神のみが正しく裁くことができるのです。

したがってイエスは、「さばいてはいけません。」と言われました。その理由として、「裁かれないためです。」とあります。

 

上司の悪口を言いながら飲むお酒のうまさは格別だといいます。また、私の知人で、どうしても親しめない二人がいました。

ある時共通の友達の悪口を語るうちに、この二人は急速に接近して、無二の親友となりました(?)。

この二人にとって人の悪る口はこの上もない美味のようでした。しかし、人を裁く刀で自分も切られることを知らなければならない。

自分が人を裁くその言葉は、自分も人から言われているのです。知らぬは本人ばかりということがよくあります。

人を切り口鋭く裁く者は、自分は正しいと思い込んでいるからそれができるのです。しかし、どうして自分だけが絶対であると言えるでしょうか。

愛のない無責任な言葉は、人と自分との間の距離を広げます。むしろ私たちは隣人を愛し、距離を縮め、

「何事でも人々からしてほしいと望むこと」を、その通りにしてあげられるものになりたいものです。

 

イエスご自身でさえ、このような裁きは行なわれませんでした。

ヨハネ5:30
「わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、

わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。」

 

聖書並行箇所

ルカ6:37-38
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、

あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される

・・・あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」

 

 

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主なる神

2021年04月09日 | キリスト教

「神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。」

                      詩篇 82扁 1節

古代オリエントでは、神々がそれぞれの地を統治し、主なる神がその神々の上に立つという神話があった。

その神話の形式に則り、神々を裁かれる主を描いています。

メソポタミヤ神話ではしばしば「神々の集い」が登場する。旧約聖書もその影響を受け

(旧約聖書が最終的に編集されたのはメソポタミヤのバビロンの地です。)、

申命記やヨブ記等にその痕跡を残している。

ただし、聖書には何度も何度も、「わたしだけが神である。」という宣言に満ちています。

この神のみがまことの神です。しかし異教では、人が神になることを教えています。

神はもしかしたら、そうしたことも皮肉を込めて、彼らのことを神々と呼ばれているのかもしれません。

 

このみ言葉は二つの解釈ができます。第一は、地上の姿とするものです。この地上にはたくさんの王や裁判官がいて、

私たちを裁きます。しかし結局神が、地上のすべての王、すべての指導者、すべての裁判官の上におられて、

最後の正しい裁きをしてくださるということです。

第二の解釈は、天上の姿とするものです。地上では正直者が馬鹿を見たり、

権力者が理不尽な暴虐を行なっりしているように見えます。

しかし、その背後に、天上ではもう一つのドラマが展開しているのです。

天上では神の周りで悪い天使(悪魔)もうごめいていて、何とか人を神の愛ら引き離そうとしています。

神はやはり最後の、そして正しい裁き主なのです。神を信頼する者には、神の正しい愛の裁きがあるのです。

神の天上の御計画とは災いではなくて、平安を与える計画であり、わたしたちに将来と希望を与えるためのものです。

 

エレミヤ 29:11 
「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。

       それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」

箴言 19:21 
「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」

ローマ 13:1
「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」

 

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赦された罪人

2021年04月02日 | キリスト教

『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。

           わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

                                    マタイ 9章 13節

主が来られたのは、病人のためであるということ。それは、罪人を招くためということを喩えるためです。

つまり、全ての人、それぞれが、自分の罪を認識しなければ、イエスがその人に近づいて、触れることはできないということです。

イエスを私たちから追い出す最も効果的な方法は、自分が正しいとすることです。自分を正しくしようとすることです。

これは、イエスの心を大きく大きく損なうことです。なぜなら、ここでイエスがホセアの預言を引用されているように、

神の喜びとしておられるのは、いけにえ以上に真実な愛、あるいは憐れみなのです。

パリサイ派は、自分がどのように行うべきかに注目していたのですが、神は私たちの行ないに関わらず、

ご自分が憐れみを示すことに喜びを覚えておられます。

 

そして、聖書は神の標準から見て「正しい者はいない。一人もいない。悟るものもなく神を探し求める者もいない。

みな迷い、誰もかれも役に立たないものとなった」と語っています。主イエスの言われている「正しい人」とは、

自分には何の欠点もないと高慢になっている人です。主イエスはこのような正しい人を招くことはしません。

招かれる罪びとがいます。神の目を通して自分を見、自分の真の姿を知っている人です。

自分こそ主イエス・キリストの救いを必要としていることを知っている人です。キリストが自分の身代に神の罰を受けて下さり、

私の罪の一切を背負って死んでくださったことを知っている人です。私との弱さも罪も知り尽くした上、

キリストは招いてくださいました。あなたも招かれている罪びとです。

 

ホセア 6:6     新改訳2017 
「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。」

ホセア 6:6     新改訳改訂第3版
「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」

ローマ 1:4
「神の慈愛があなたを悔い改めにみちびく」

 

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