マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

われは咲くなり 

2017年09月29日 | キリスト教


「 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、

                     天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

                                                   マタイ 5章 16節

「 ひと 見るも良し、見ざるも良し、われは咲くなり 」 とても素敵な言葉ですね。

数ある花の中には、目立つところで咲き、人々からもてはやされる花もあれば。ひっそりと庭の片隅や野に咲く花もあり、

日陰で美しく咲く花もあります。人さまが褒めてくださるときには、本当にうれしいものです。

でも、目立たない存在であり、目立たない立場に置かれる時期にあっても、「 わたしは咲いています 」 と、

日陰で咲く野の花のように、くさらずしっかり自分の花を咲かせたい。

花本来の使命は、人からの評価にあるものではなく、ひたすら咲くと言う美しくも強い姿にあると思うのです。

私たちも咲かせてくださるのはただ私の内に居られる神の恵みです。内から外へとこの神の愛の輝きを現していきたい。


 

Ⅰコリント 15:10

「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、

私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」


Ⅱコリント 3:3

「あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、

石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。」

 

 

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救いの道

2017年09月22日 | キリスト教

「…… 、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。

あなたが私とともにおられますから。」

                                               詩編 23篇 3~4節

 

近代生活は、多くの物に囲まれて一見豊かに見えますが。決してそうではありません、科学・医学の発達で長命になっていますが。

いつか別れが来ます。全てを残して裸で旅立っ時が来ます。そのとき、神が共にいて下さり、神に従うことを知っておれば、

ひとりで旅立つ寂しさはありません。そこに平安が、まことの平安があります。

 

義の道は決して平坦でま直ぐな道ではありません、しかし、その道は神の救いを示し、その道を歩む者には、

神の義である救いを得させる道なのです。「…。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。

わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 」 ヨハネ 1:21

 

神に背を向け、死と言う苦痛に捕らわれる私たちは、悔い改める日々の中に得るものがあります。

それは、神と共に如何なることも歩みとおす喜びです。神に目を向け、神と共に歩みましょう。

ヨブ 1:21

「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

ヨハネ  14:18

「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」

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平安が

2017年09月15日 | キリスト教

「 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、

世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。  」

                                              ヨハネ 14章 27節 

「 ところで、贈り物をあげましょう。 そう、あなたがたの思いと心を安らかにしてあげる、それがわたしの贈り物です。

わたしが与える平安は、この世が与える、はかない平安とは比べものになりません。 だから、どんな時にも、おろおろしたり、

恐れたりしてはいけません。」                            同 リビングバイブル

 

世が与えてくれる平安はやがてなくなる一時的なもの、神の平安とは、死と裁きからの解放であり、

外部の状況がどうであれ、揺るがない心の平安です。この世では 「 彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、

平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。 」 エレミヤ 6:14 と、偽りの平安の中で心と思いを傷つけているのです。

主が弟子たちに町や城や、金や銀を残していかず、天上・地上における最大の宝として主の平安を残していかれると言うことは、

実にすばらしい最後の言葉です。弟子たちはおそれたり、嘆いたりする必要はなく、心のうちに美しい希望に満ちた

平安を持つことができます。

主は言われます。「 わたしが心からあなた方を愛し、あなた方の益のみを望み、また、私の父は最高の恵みのうちに、

あなた方をご覧になっておられるという事実をあなた方に教えてきました。これこそ私があなた方に残していくことの

出来る最上の贈り物です。」 

心の喜びはあらゆる喜びの中で最大のものです。心の悲しみはあらゆる悲しみの中で最大のものであると言われている通りです。


ヨハネ 

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、

世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

Ⅰコリント 1:3

「 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」

 

 

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真ん中に立ち

2017年09月08日 | キリスト教


「 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」

                                                       ルカ 24章 36節

教会が死んでいるか、生きているかの大きな違いは。ひとり一人が生きたキリストに出会って、

キリストが今生きていると言うことを認め合っている時に、教会のかしらである主イエス・キリストがそこで働かれるのです。

さて、この聖書の箇所は、苦しみを受け、十字架の上で亡くなられ墓に葬られ、三日目によみがえった主イエスが、

でしたの余っている部屋に現れた場面です。( 私たちの主は私たちの失望の真ん中に来られるお方です。) 

主イエスの弟子たちは、先生が十字架の上で処刑される段になると、我先に逃げ出してしまいました。

師と仰ぎ、三年もの間寝食を共にして親しく教えを受けたその主イエスを、土壇場で見限ってしまったのです。

「 自分たちも捕縛されるかも 」 「 主イエスのように十字架刑に処されるのでは 」 こうした恐怖感が。

師を裏切ると言う行為に走らせたのでしょう。( でも、この場面を自分にあてはめたとき、

この弟子たちを裏切り弱き者とは片付けられないのではないでしょうか。)

 そんな弟子たちの前に、甦られた主イエスは現れました。この弟子たちをなぜ私を見限ったのかと責められることなく、

「 あなた方に平安あれ 」 と親しくあいさつされたのです。弟子たちにはこれ以上に喜ばしい言葉はなかったのです。

今日もこのブログに来られた一人ひとりに主イエス・キリストは、「 あなた方に平安あれ 」 と言われています。

このお方を受け入れ、まことの変わらない平安をいただいていきましょう。

ヨハネ 20:19 ・ 21

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。

そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

 

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救われて来た。

2017年09月01日 | キリスト教

   「 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。 」

                                  詩編 22篇 4節

人には誤解され、わかってもらえず、どこを向いてもとりつく島もない。しかも、いくら神に叫んでも、神もだんまり、

そんな経験があなたにもあるでしょうか ?? 魂がうめき、もだえる時です。

自分の中には、罪も咎も間違いもないと思うのに、神に答えてもらえない。そんな時でも、

私たちが、この人生で経験するすべての悩み悲しみ苦しみの目的は、神への信頼を強めることにあるのです。

ダビデもヨブもそんな経験をしたのです。しかしダビデは暗くてつらい魂の経験を通して教えられたことを、

ここに告白し、また、依り頼んで裏切られたことはないと言うことを証ししているのです。

神は聖です。ご自身の聖さ、愛と真実に、決して背くことができません。神は聴いてくださるのです。

ひがまず、呪わず、神を讃美し、神を礼拝し続ける民に、やがて御顔が見えてくるのです。

呪いの中には神はおられないのです。

 

詩編 6:5

「主よ、立ち帰り/わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく/わたしを救ってください」

詩編 22:25

「主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。」

 

 

 

 

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