マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

あなたの宝は

2018年01月26日 | キリスト教

 

「 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」

                         マタイ 6章 21節

イギリスのエリザベス女王があるとき、インドのカルカッタを訪れ、マザーテレサのしている仕事を詳細にご覧になられました。

マザーは誰もが知っているように、孤児たちを育て、ハンセン病者、エイズ患者たちの看護に当たり、

路上でだれにも看取られることなく一生を終えようとしている瀕死の病人を、

「死を待つ人の家」に連れてきて安らかに死なせるといったお仕事をしておられました。

このような働きを視察した後に、女王はつぶやきました。

「たとえ百万ポンドやると言われても私には到底できないことだ」するとかたわらにいたマザーテレサもいったそうです。

「私にもできません」同じ言葉を使いながら、二人の間には大きな隔たりがあったよに思います。

女王がどれほど多額の報酬があったとしても私にはこの仕事はできないといったのに対して、

マザーは「私も、お金のためでしたら、この仕事はできません」ということだったそうです。

箴言より 

30:7 二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。
 
30:8 不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。
 
30:9 私が食べ飽きて、あなたを否み、「【主】とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。
 
     平安な生活とは必要なものは与えられ、必要以上のものは捨てることから始まります。

 

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ねたむな、腹を立てるな

2018年01月19日 | キリスト教


「 悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。」

                              詩編 37編 1節

 

腹を立てるなと言っていますが、その理由は二つあります。

一つは、彼らは草のようにたちまちしおれ、枯れるからです。

神にお任せしておけば、必ずしおれていくのだから、ということです。

もう一つは、「怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ」というのです。

腹を立てることは、悪をもって悪に答えようとすることであり、

そこから惨めな自分自身の悪がゾロゾロ出てくるというわけです。

まず知らなければならないのは、腹を立て、妬みを起こすことの裏にあるものは、「恐れ」があるのです。

腹を立てる代わりに、私たちはどうしたらよいのでしょうか。本当の自由人はまず神を第一として、

愛する、仕える、清く生きるという原則に徹するという人です。

そして腹を立てるという消極的な生き方をかなぐり捨てて、その原則に基づき、祈ったり、

親切を尽くしたりする、積極的な実行に生きる人だと思います。


箴言 
24:19 悪を行う者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。
 
24:20 悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消えるから。
 
24:21 わが子よ。【主】と王とを恐れよ。そむく者たちと交わってはならない。
 
24:22 たちまち彼らに災難が起こるからだ。このふたりから来る滅びをだれが知りえようか。

 

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赦される幸福

2018年01月12日 | キリスト教

 

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。

      わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」

                         詩編 32編 8節

 

ダビデは、神に完全に許される幸福を天国の喜びにも似た幸せとして告白しました。

しかし問題は、どうしたら罪を重ねないで生きることができるかです。

罪を完全に赦された喜びは、長続きしない可能性が強いのです。

人生はいつも新しい危険や誘惑に満ちているからです。

今日の詩編のみ言葉は、この人生の問題への一つの回答です。

 神と親しい日毎の交わりを持つとき、神は悟りを与えてくれます。

これが人生の基本的な原則です。人生には原則が貫かれることが大切です。

また神は、行くべき道、具体的、実際的な道を見せてくださいます。

名人のそばで修業している弟子が盗むように名人芸を身につけていくように、

日々神に祈り、聖書を通して神と交わる人々は、やがて、自由な、

愛ときよさの道を神とともに歩むようになるのではないでしょうか。

 

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来て、見なさい

2018年01月05日 | キリスト教


「 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」

                         ヨハネ 1章 46節

のちに使徒として知られるようになったヨハネとアンデレは直接イエスに招かれました。

アンデレは兄弟のペテロを導き、ピリポはナタナエルにあってイエスのことを伝えました。

その時ナタナエルの反応は、「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ということでした。

このナタナエルの反応は現代人の自分の納得できる以外の者には価値観を置かないという点で共通したものです。

キリスト教徒か信仰になんの良いものがあるのかという疑問です。これに対してピリポの答えは、「来て、そして、見なさい。」

とそっけない程簡単明瞭なものでした。

人は神に愛され、神を愛する経験をして変わっていきます。神は、犠牲を払ってこの自分のような者を愛してくださった

という経験をした者は、同じように他者を愛し実践することを喜びとします。

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