マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

朝ごとに

2019年01月25日 | キリスト教
 
 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。
朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。」
                                 イザヤ 50章 4節
 
自分のしていることに気づかない、また神の主権と力を認めない者たちに対して、それでもなお真実をもって、
 
矢筒に隠した矢のように御言葉を語る主イエスの姿です。頑なな民に対して、主はなおも仕えられました。
 
それは一にも二にも、父なる神ご自身からご自身が召されたのだ、人として現れること、女から生まれる者とされたこと、
 
このことをわきまえておられました。
 
そして、人となられただけでなく、さらに人からの侮辱を受けることも御父から言われていることとして、
 
服従されたのです。そして次が、あまり知られていないことです。人としての主イエスは、心の中でこのよう な侮辱に対して、
 
どのように対処されたのかを見ることができます。
 
主の僕はかたくなな民に語るために舌を与えられ、語るべき言葉を聞くために耳を与えられた。
 
イエスも朝毎に祈って一日の宣教を始められた。他者を慰めうる者は神からの慰めを通して力をいただく者だ。
 
主の僕は神の言葉を語ったが、帰国に反対する者たちは僕に肉体的な危害を加え、精神的な屈辱を与え、
 
更にはつばを吐きかける等の侮蔑行為も行ったらしい。僕はそれでも「神の言葉に逆らわず、神の命令に退かなかった」。
 
主イエスは、人間の姿を取られました。父なる神から離れては、何も行なわないようにしておられました。
 
私たちが今、主の言葉に聞き入る弟子であるように、主ご自身が父なる神の御声に聞き入る弟子のようでありました。
 
従順なしもべが「恥を見ない」という確信をもって歩んだことがいかにすばらしい事か、謙遜と従順の極みをイエスの中に見させられます。
 
 
使徒パウロは、神のしもべであるイエスをメシア(キリスト)として次のようにたたえています。
 
ピリピ 2章6~11節
6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
 
 
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学んだ。

2019年01月18日 | キリスト教

「 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

                                  詩編 119篇 71節

 

万物が成長を止める冬こそ、土壌にとっては安息の時であり、

その間に来年の目覚ましい活躍のための復活の力が蓄積されるのです。

実に行き届いた神の愛の配慮ではないでしょうか。私たちはこの寒い冬の中にあっても、

なおその中に秘められた神の愛の御心を悟って、この寒い冬のためにも感謝することを学びたい。

ところで自然界に冬が来るだけではなく、私たちの人生にも冬があります。

時には花咲く順調な春もあるでしょう。あるいは額に汗して弄する勤労の夏もあるでしょう。

成功の実を楽しむ収穫の秋もあるでしょう。

しか、また日の光さえ見えない逆境の冬も何回となく巡って来ることも確かなことです。

自然界に冬を与え、草木のために配慮し、人のために最善の取り計らいをしてくださる神は逆境の中にも、

必ず恵みを備えてくださるということを学びたい。

 神の教えを学ぶために、どれだけのことが必要でしょうか?自分が心身ともに健康であれば、

神の教えなんか要らない、と言うところでしょう。だから、苦しみが必要でした。

神の教えを受け入れるのに、別に苦しむ必要はありません。

けれども、自分は苦しまなかったら、教えに聞き入ることはなかっただろう、ということです。

もし苦しみにあっていなかったら、決してキリストのところに来なかったと思います。

自分の愚かさに対してそうした悪いことが起こらなければ、

決して聖書を読みたいなど と思わなかったことでしょう。そして苦しみを経たからこそ、

私たちはへりくだることができます。

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祝福された日々へ

2019年01月11日 | キリスト教

「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。

                    その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」

                                    詩編 1篇 3節

主の教えを喜びとし、それを思い巡らす結果が、ここに書かれているとおりです。


私たちは、「植えられた者」です。神によって、命の水の源であられるキリストの中に

植えられた者であり、命の御霊によって実を結びます。
 
私たちはすでにキリストといういのちの水の源泉にふれています。

このキリストのうちに神の知恵と知識との宝がすべて隠されています。
 
ですから、キリストのことばを私たちのうちに豊かに住まわせ、キリストの中に根差し、

主にある者と共に建てられていく者とされているのです。
 
また、この繁栄は、少しずつであることを忘れないでください。木から実が結ばれるのに時間がかかるように、
 
繁栄にも時間が必要です。そして、自分の行為によって繁栄するのでもありません。

自分の仕事はただみことばを自分に蓄えること、主の教えを喜びとしていることです。
 
神のいのちの中に深く根を下ろした人生こそ幸せな人生ですが、その第一の祝福はいのちの祝福です。
 
幸いな祝福された人生とは、神のいのち、つまり本物のいのちと繋がっているものなのです。
 
いのちがありさえすれば冬に枯れても、霜に打たれ、虫に食われ、嵐に倒れても、また芽をふくのです。
 
その第二の祝福は成長の祝福です。いのちのあるものは成長するのです。
 
第三の祝福は美しさの祝福です。いのちのある人生は愛と喜びと平和の美しさに飾れらるのです。
 
そして第四の祝福は実りの祝福です。いのちのある人生には実が実ります。祝福が他の人にまで及ぶ実を結ぶのです。
 

エレミヤ 17:7-8
「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。
彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、
その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」。
 
 
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祝福された地

2019年01月04日 | キリスト教

「しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。

その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。」

                              申命記 11章 11~12節

今、私たちは未知の世界の入り口に立っています。目の前には新しい一年が横たわっており、私たちはそこを進んで行って、

それを自分のものとします。何を見出すのか、進んでいく途中でどのような新しい経験をするのか、

どのような変化が起こるのか、どのような必要が生じて来るのか、理解している人など一人もいません。

この先何が待ち受けているのかわからなくても、私たちは力と慰めを与えてくれるみ言葉を天の父からいただいているのです。

主は、私たちに必要なものを供給してくださるお方です。私たちに必要なのは、ただ信頼することだけです。

父なる方が今、私たちの傍らに立って、手を取り、進むべき道に導いてくださいます。

この年は、素晴らしい祝福に満ちた一年となることでしょう。神はご自身に信頼するものを喜ばれるのです。      
               

                                   「荒野の泉」より抜粋。

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