マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

ほほえみ

2023年01月27日 | キリスト教

「 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。 」

                        ビリピ 4章 4節

笑顔は心と思いが平安の喜びで満ちているから、ほほえみとなるのです。この平安は主イエスに愛されたというところから始まります。 


「 ほほえみは、お金を払う必要のないものだが  相手にとってはひじょうな価値をもつものだ 

ほほえまれたものを、豊かにしながらも、 ほほえんだ人は何も失わない

フラッシュのように、瞬間的に消えるが、 記憶には永久にとどまる

どんなにお金があっても、ほほえみなしには貧しく いかに貧しくても、ほほえみの功徳によって飛んでいる

家庭には平安を生み出し、社会では善意を増し 二人の友のあいだでは、友情の合言葉となる

疲れたものには休息に、失望するものには光になり 悲しむものには太陽、さまざまの心配に対しては、

自然の解毒剤の役目を果たす。

 しかし買うことの出来ないもの、頼んでも得られないもの 借りられもしない代わりに、盗まれないもの、

なぜなら自然に現れ、与えられるまでは、存在せず、値打もないからだ

もしあなたが、誰かに期待したほほえみを、得られなかったら、不愉快になる代わりに あなたの方からほほえみかけてごらんなさい

実際、ほほえみを忘れた人ほど それを必要としているものはないのだから。」

          ノートルダム清心学園理事長である 渡辺和子氏の著書 「 面倒だから、しよう 」 よりの抜粋です。

 

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裁くばく人と裁かれる人

2023年01月20日 | キリスト教

 「食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」   

                                     ローマ 14章 3節

私たちがなぜ、他の人をさばいてはいけないか。その理由が、ここに書いてあります。神がその人を受け入れておられるからです。

神が受け入れておられるのに、私たちが受け入れないならば、私たちは、神のみこころに背いている、罪を犯していることになります。                                
 

教会には厳格な狭量派と寛大な自由派があります。この時代にも、また現代と言うときにも、二種類の人たちがいます。

それは表に出さない人と、はっきりと態度で表す人たちです。

私たちは教会の交わりから、あら捜しや軽蔑を ( 色んな意味を込めて )、共に無くさなければなりません。

ただ同情と愛と理解を持っことをに努めなければならないのです。

主イエスは 「 信仰は食べ物に関する規則を守ったり、安息日の過ごし方などという規則で縛ることはできない 」 とハッキリ言われています。

食べ物に汚れたものなどははない。安息日に働きさえしなければいい、と言うものではなく、主が望まれているのは、

もっと生き生きとした愛であり、義であると言われているのです。


      何故。人を裁いてはならないのか ?  それは、神が愛をもってその人を受け入れているからです。 
        
 食物についての聖句を。
 
 「・・・・ イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。 」 マルコ 7:19
 「・・・・ しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。」 Ⅰテモテ 4:3
 「・・・・ 神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。」 Ⅰコリント 8:8
 「・・・・ しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、・・・・  」  ローマ 14:23
 「・・・・ 、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。 」 Ⅰコリント 10:31 その他。
 
 そして最後に。
     「 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」 ヨハネ 4:32

       裁くのも疲れてしんどいものです。裁かれるのもまた辛くしんどいものです、平安がありますように。アーメン

 

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パラダイスに

2023年01月13日 | キリスト教

「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」           
                            
                                          ルカの福音書  23:43

この犯罪人は、おそらくイエスが神の国を立てられる終わりの時に、私を思い出してくださいと言ったのでしょう。

彼は願っているのであり、要求していないことに気をつけてください。

他の人々は、「救え」と要求していました。しかし、彼は願っているだけです。

ここにイエスに自分のことを決める権威を持っておられることを認めています。

救いを得ることは、権威に服することです。そして権威に服する人は、安心と平和を見つけます。嘆願はしますが、要求はしません。

神に対して、また人に対して同じです。 

 

イエスは、「きょう」と言われました。イエスが死なれて、この犯罪人が死んでから、

いや、今、犯罪人が告白したその瞬間から、彼はその祝福にあずかるようになったのです。

彼はまだ十字架につけられています。その苦しみを受け続けています。

けれども、罪の赦しを得たのです。イエスの祈りが、この犯罪人において聞かれたのです。 

主イエス・キリストは、いつもあなたに、手を差し伸べて。あなたにチャンスの用意をしてくれています。

あなたはこのチャンスを受け取りますか、それとも無視しますか ??  

 

 

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神は死んだのか

2023年01月06日 | キリスト教

 

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」

            ルカ 20章 38節

神が死んだと言うことは、むしろ問題ではない。 

神を知っている、私たちが、 世の光、地の塩でなければならない私たちが、

ぜんぜん、神のことを理解していないために、私たち自身の中で、神が死んでいることが問題なのです。

 

その愛の神があなたに命じられています。あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ。と、

それでこそあなたの内に私は生きるのです、

とても、とてもじゃないですが、出来ません、そう、正直に言ってどんなに欲目に言ってみたところで、

私には不可能、出来ません、

ですから、主イエス・キリストがあなたの側に居られるのです。 従う事こそ、理解への道。 

 

黙示録  1:17-18 
「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、

  見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。」

 

 

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