マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

無関心の罪

2019年08月30日 | キリスト教

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」
                         ルカ 16章19節

この話は「金の好きなパリサイ人」に語られた話であることを念頭に置く必要があります。

たとえ話に登場する「ある金持ち」は多くの良いものが与えられていましたが、

自分の側にいる貧乏人に対しては全く無関心であったという点です。ラザロの場合はどうであったか、

聖書はなにも語っていません。焦点は「ある金持ち」に当てられているからです。

この話を通して、イエスは金銭を愛することの危険を警告していると信じます。

金持ちは財産に恵まれていながら、門前に横たわって食卓から落ちる物を貰い受けて命をつなぎ、

「犬もやって来ては、そのできもをなめた」と記されている可哀想なラザロを憐れむことなく助けることもしませんでした。

他方ラザロは悲しみと不遇の中にあっても、この世の生の終わるまで耐え忍んで生きていました。

世の中には生まれつき障害を負った人、病気や事故に遭って苦しみを背負うようになった人がいます。

こうした中で神への信頼と信仰と希望をもって試練に耐え忍ぶことのできる人は幸せです。

金持ちもラザロも「死を迎えた」と言うことは公平でした。しかし、死後、ラザロは天使たちにより宴席へ連れて行かれ、

金持ちといえば黄泉でさいなまれたと聖書は記しています。

神が死後全く異なった世界へと移されることを考える大切なメッセージです。

金銭を愛する人は自分の全存在を神に頼るということは決してないのです。

イエスのもとにしばしば永遠のいのちを得ようとして熱心に求道してくる人はみな多くの財産をもっていました。

律法を守る事にも熱心でしたが、そうした彼らにイエスは「欠けたことが一つある」と言っています。

その「欠けたる所」とは全存在をもって神に頼るという所です。

イエスが13節に述べている「神にも仕え、また富にも仕えるということはできない」というのは真実です。

それゆえ、パリサイ人のみならす、金の好きな者たちに対しても、イエスは警告しているのです。

使徒パウロは愛弟子テモテに次のような手紙を送っています。
「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。・・金持ちになりたがる人は、

誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。

金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、

信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(1テモテ6:6~10)

「 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」ヘブル 9:27

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確信がある、

2019年08月23日 | キリスト教
「彼らがわたしに対して陣を敷いても/わたしの心は恐れない。

           わたしに向かって戦いを挑んで来ても/わたしには確信がある。」
                
                               詩編 27篇 3節

「わたしには確信がある」どんな人生の局面に遭遇しても動じない、

恐れない、おろおろしない確信を持つことができたら、どんなによいでしょう。

では、どうすれば、私たちは、確信を持つことができるのでしょうか。

第一に、神は究極の勝利を与えてくださると信頼することです。

敵は攻め込んで、陣地を破り、物を分捕り、しまいには、私たちの命を奪い、切り刻むかもしれません。

しかし、神は私たちに、死んでも死なない、永遠の命を与えてくださいます。

命を奪えても魂は殺せないのです。

神のくださる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。

さて、戦いの中で、最も大きな敵は「恐れ」と言われます。恐れによって、

相手が一の力しかないのに十に見えたりします。信仰によって、この恐怖を克服することができます。

ロマ 4:20
「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。」

エペソ 3:12
「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」
 
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光として。

2019年08月16日 | キリスト教
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、
                 天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
                            マタイ 5章 16節

「ひと 見るも良し ひと 見ざるも良し 我は策なり」素敵な言葉だと思います。

数多くある花の中には、目立つところで咲き、人々からもてはやされる花もあれば、

ひっそりと庭の片隅や野に咲く花もあります。ひとさまが褒めてくださるとは本当にうれしいものです。

でも、目立たない存在であり、目立たない立場に置かれる時期にあっても、

「わたしは咲いています」と野の花のように、くさらずしっかりと自分の花を咲かせたいものです。

花本来の使命は、人からの評価にあるのではなくて、ひたすら咲くことにあるという美しくも

力強い姿にあると思います。

私たちが世の光として輝く結果、人々が私たちをほめたたえるのではなく、

神をあがめるようにならなければなりません。私たちが何か良い事をすると、

人々は必ずといってよいほど、私たちに感謝し、私たちが何とすばらしい人なのかとほめたたえます。

けれども、その時に、「私たちではなくて、私たちのうちにおられるキリストがしてくださったのです。」

と証ししなければなりません。栄光は、私たちにではなく、神に帰されるべきです。

自分の信仰、神に対する希望をただ心の中に留めていくことだけでは不十分だということです。

信仰とは公にするものです。口で告白するものです。そして教会のみならず、世の人に対しても

明らかにすることです。これには危険が伴います。

なぜなら、自分がキリストにそぐなわないことを行なえば、すぐに周りの人はそれを認め、

「だからクリスチャンは・・・」と言って、キリストの名が侮られる可能性があります。

けれども、私たちはキリストの使節です。出て行き、キリストの権能を携えて、その力を行使する者たちなのです。

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愛はゆるしは

2019年08月09日 | キリスト教
「 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
      
                            マタイ 18章 22節

私たち人間が思いつく赦しと、神の考えておられる赦しとは、なんと、桁外れに違うということでしょう。

そして、人の頑張りはこなごなに砕かれてしまうのです。無限に赦すのは、自分が無限に赦されているからなのです。

昔。読んだ本を思い出しました。そのところで「なるほどね」と教えられたのでその一文を書かせていただきます。

その本の著者は奥村一郎神父の「断想」という本です。

愛だけが人間の救いであり、神を生き、神に生かされる道であることは確かである。しかし、過ちの多い人間にとって、

神が救いとなるためには、愛と「ゆるし」とは同意語とならなければならない。

人は無言の鏡の前に立つとき、自分の姿のゆがみに気づき、顔の汚れを素直に落とす気になる。

しかし、人から差されると、なぜか不愉快になる。鏡はすべてを受け入れる。鏡の注意は温かく、明るい。

人の言葉は鋭く、冷たい。事実、福音の本質といえば、「愛とゆるし」の二語に尽きる。

私たちが求めるべきものは、ただこのことだけであり、このことによってのみ、神を生き、キリストを知りるのです。
 

マタイ18:24-27
「決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王の所に連れられてきた。返せなかったので、

主人はその人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。この僕はひれ伏して哀願した

『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。主人は哀れに思って、彼を赦しその負債を免じてやった。」
 
 
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いつか別れが来ます。

2019年08月02日 | キリスト教
「魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」
                    詩編 23篇 3~4節

ここに、クリスチャンの特権が書かれています。死ぬ際に、災いを恐れないで死ぬことができる。

主が、死ぬ直前にも死の直後にもともにおられるという確信があるから、

恐れないで死ぬことができる、という特権です。

近代生活は、多くのものに囲まれて一見豊かに見えますが、決してそうではありません。

科学・医学の発達で長命になっていますが、いつか別れが来ます。すべてを残して裸で旅立つ日が来ます。

その時、神が共にいてくださり、神に従うことを知っていれば、一人で旅立つ寂しさはありません。

そこに平安が、真の平安があります。神に背を向け、死という苦痛に捕らわれれる私たちは、

悔い改める日々の中に得るものがあります。それは、神と共にいかなることも歩み通す喜びです。

神に目を向け、神と共に歩みましょう。

私たちは鞭を嫌がります。自分が行きたい方向に行かせてくれない杖を嫌がります。

けれども、私たちを愛して、命を捨ててくださった方の鞭と杖は、狼から、

悪い者から私たちを守ってくださるものです。だから、それは痛みでも不快でもなんでもなく、

むしろ「慰め」なのです。

主が共におられるその義の小路は、死を予期するようなことが起こっても、それでも恐れから守られた状態です。

ヨブ 1:21
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」

伝道者の書 5:14
「人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない。」

イザヤ41:10
「恐れることはない、私はあなたと共にいる神。たじろぐな、私はあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、
私の救いの右の手であなたを支える」。
 
 
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