「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」
ルカ 16章19節
ルカ 16章19節
この話は「金の好きなパリサイ人」に語られた話であることを念頭に置く必要があります。
たとえ話に登場する「ある金持ち」は多くの良いものが与えられていましたが、
自分の側にいる貧乏人に対しては全く無関心であったという点です。ラザロの場合はどうであったか、
聖書はなにも語っていません。焦点は「ある金持ち」に当てられているからです。
この話を通して、イエスは金銭を愛することの危険を警告していると信じます。
金持ちは財産に恵まれていながら、門前に横たわって食卓から落ちる物を貰い受けて命をつなぎ、
「犬もやって来ては、そのできもをなめた」と記されている可哀想なラザロを憐れむことなく助けることもしませんでした。
他方ラザロは悲しみと不遇の中にあっても、この世の生の終わるまで耐え忍んで生きていました。
世の中には生まれつき障害を負った人、病気や事故に遭って苦しみを背負うようになった人がいます。
こうした中で神への信頼と信仰と希望をもって試練に耐え忍ぶことのできる人は幸せです。
金持ちもラザロも「死を迎えた」と言うことは公平でした。しかし、死後、ラザロは天使たちにより宴席へ連れて行かれ、
金持ちといえば黄泉でさいなまれたと聖書は記しています。
神が死後全く異なった世界へと移されることを考える大切なメッセージです。
金銭を愛する人は自分の全存在を神に頼るということは決してないのです。
イエスのもとにしばしば永遠のいのちを得ようとして熱心に求道してくる人はみな多くの財産をもっていました。
律法を守る事にも熱心でしたが、そうした彼らにイエスは「欠けたことが一つある」と言っています。
その「欠けたる所」とは全存在をもって神に頼るという所です。
イエスが13節に述べている「神にも仕え、また富にも仕えるということはできない」というのは真実です。
それゆえ、パリサイ人のみならす、金の好きな者たちに対しても、イエスは警告しているのです。
使徒パウロは愛弟子テモテに次のような手紙を送っています。
「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。・・金持ちになりたがる人は、
「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。・・金持ちになりたがる人は、
誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。
金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、
信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(1テモテ6:6~10)
「 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」ヘブル 9:27