「 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、
目標を目ざして一心に走っているのです。」
ピリピ 3章 14節
知れば知るほどに深くかかわりたい主の愛と恵みが、この目指して一身に走る動機となっています。また、
自分の達しているところを基準として、他人と自分を比べて一喜一憂する信仰生活ではなく、
ただ、神を見不上げて生活するです。感謝と喜びの故に、自発的に自我と戦い、自己訓練し、神に仕えたい。
さて、あなたは「お前やる気があるのか」と言って叱られ、はっとしたことがおありでしょうか、
「なぜ、なんのために、こんなことをやるのだろう。」 と考えているうちに、やる気満々ではなく、
やる気ノンノンになってしまったのです。
人はさまざまで、エンジンをかけて待機している車のように「やるぞ」という気持ちがみなぎっている
人もいれば、ガレージに収まった感じで、やる気を起こさせるのに手間取る人もおられます。
与えられた性格、素質なのかもしれませんが、人生それではすまされない。
その点でもキリストの弟子パウロは偉大でした。この人はサウロと呼ばれ、イエスとその教えに反対し、
キリスト信者を捕らえたり、処罰したりしていました。しかし、イエスに出会って百八十度転換してからは、
過去を振り返って気落ちしたり、人目を気にして躊躇したりせず正しいと分かったことに全力を
傾けて努力しました。私たちも、今持っているすべてを持って自分の最高を捧げたいものです。
聖書から
「 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、
私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。 」 Ⅰコリント 9:25
「 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、
私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって
走り続けようではありませんか。」 ヘブル 12:1