マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

どちらかに

2014年08月29日 | キリスト教

 

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、

わたしに仕える者もいるべきです。  もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」     ヨハネ  12:26

 

現在、地球には、何十億人という人がいます。

それらの人を大きく二つに分けるとすると、次のように分けることができます。

一組は、イエス様を信じている人たちです。もう一組は、イエス様を信じていない人たちです。

そして、私たちは、このどちらかに属します。どちらに属するかは、とても大切なことです。片足をあちらに、もう一方をこちらにしていると疲れますよ。

「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」

                                                         黙示録 3:15 ~16                                                    

主に出会ったと言うことは大変素晴らしく、感謝してもし尽くせないものです。信仰の先輩そして影で祈り支えてくれた信仰の友に感謝。

しかし、この友だちに出会っただけでは不完全です、自身が悔いて神の前にひれ伏し、主を体験的にお迎えしなければならない。

 あなたは真実にどちらに属しておられますか。今はやりのニューハーフであってはならないのです。今日、潔く主に平伏しましょう。

「 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」  マタ イ 11:28

 

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神より

2014年08月23日 | 聖書


万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。

                                                        ロマ 11:36

神は最後に、人間を創造されました。( それは、非常によかった、と有り。)

人間は他の造られた物と違って、神のかたちに造られています。

  どう違うのか。  ????

伝道者 3: 21
だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。

伝道者 12:7
ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。

へブル 9:27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

獣には「?」が無いので、「死」とは、チリに帰るだけ。しかし、人間はそうでなく、創造主の神にこの霊を返さなければならないので、「霊的な歩み」即ち、日々の生活の中で神の御心を成すように求められる、

   それはなにか。…… 。 ???

ここで素朴な質問。

そもそも、何故、神は人を創ろうと思われたのか。…

それも、地のチリで。…

神の玩具ではなく。…

その人のために全てを整えて。…

それも御自分に似せて。…

そして、何故、それが私なのか。・・・・

 

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父なる神が

2014年08月16日 | 聖書

だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、
    これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
                       
                                             エペソ人への手紙 5章29節

 「 いまだかって、自分を憎んだ者はいません 」 と聖書は言うのです。

自分を愛して当然です、これを自己愛と言います。ただ、自己愛は行き過ぎると、自己憐美に陥ります。

そしてこれは、とんでもない悪魔に変身してしまうです。

しかし、聖書の言う健全な自己愛は、自分を愛するように自分の隣人を愛しなさいと言う言葉にかかってきます。

そういう意味で、本当に自分が愛され、また、そのような自分自身をそのままで受け入れ愛してくださった方がおられることを知る、

これが本当の自己愛ではないでしょうか。自分を愛せないで、他者を愛することは不可能なことですし、それは自己満足、自己欺瞞です。

父なる神があなたを愛してくださっているのですから、自分を大切にしていただきたいのです。

もう一度言わせてください、あなたは神にとって特別な人なのです。 

 

「 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、

         なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」    Ⅰヨハネ  4:10

                                               「下にいる者に落ちる憂いはない」  ジョン・バニヤン

 

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自覚

2014年08月09日 | 聖書

 

 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
                                   

                                                 ローマ人への手紙 7章24節

自分で頑張って、自分の人生ぐらい、自分で切り開いていかなければ、人に頼る事は弱いって言うことは、百も承知です。でも、それでも、どうしょうもない

こともある。

それはあなたの命そのもののことです。私たちはみな罪人であり、罪には必ず刑罰があります。しかも、これは自分の力では、その罪に打ち勝つことが出

来ないとすれば、私たちは全く絶望です。誰かが私に力を貸してくださって、救ってくださらない限り、私は滅んでしまうのです。

この「 自分はみじめな、滅ぶべき罪人である 」 との自覚が、何よりも大切です。病気の人が自分の病を自覚しない限り、治療の必要を認めないように。

滅びを意識しない者は、救いの必要も感じないのです。( 不自由を体験して、初めて本当の自由を味わえるのです。)

                                          イエス・キリストにはあなたの不治の病を癒す力があります。

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旅路を終えませんか

2014年08月02日 | 日記

 

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです          新改訳聖書
                                

わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。       新共同約聖書

                                     ピリピ人への手紙 4 章 13 節
            

私たちは、いろんなことに否が応でも嫌になることに直面することがあります。そのことの中にあって、得ることもあり、また失うことも多くあるのです。

しかし、年を重ねていくのに応じて。失っても、得ても、それほどの違いはないことを知るようになって行きます。

ただ、若いときは、それに心を奪われてしまうと言うことが問題でした。

今まで、全てを犠牲にして、あらゆる願いも退け、あらゆる感情も捨て、愛というものも、この人生から締め出し、人への思いやりも捨てて、自分の意思を

強固にして、なりふかまわず走ってきた結果得たものは、本当の満足ではなく、実にむなしいものでした。

人は自分の本当の姿がわかるまで、自分を知りえないし、また満ち足りることはないのです。聖書は言うのですこのお方によって、満ち足りるのですと。

真実の自分に出会いたいと、思われませんか。主イエスはあなたを今日も招いておられます。

                                                                                   今日であなた探しの旅路を終えませんか。

 

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